「何処ツ何時ツ」
陽子、車椅子に乗り、ゆっくりゆっくりと現れる。
陽子
眠らなくなってしまってから、どれほどの時が流れたであろうか。
私の両手は当ても無く歩く。
今や人間は足で歩かない。
手で歩き、脳で歩き、目で歩く。
歩いている、つもりになっている。
動かされているのは私か。
動かしているのは私か。
脳が歩いている。
道が続いていく。
何処へ、何処へ繋がるの?
あの日、あの時が漂っている。
漂っている、場所に耳が歩いていく。
聞こえる、
棚川
陽子さん、陽子さーん。
ふと、老人ホームの共有スペースになる。
棚川
どこ行くんですかー、陽子さん。
陽子
あの漂っている陽だまりにさ、
棚川
陽だまりですか、それは暖かそうだこと、でもね陽子さん、あんまりチョロチョロ動き回
られたら困っちゃうから、怪我でもしちゃったら大変でしょう、出来たらね、部屋でじっ
としてて欲しいの。聞こえてる?はい、牛乳、飲んで、ゆっくり。
陽子
白い、液体。
棚川
牛乳ですよ。
陽子、牛乳を飲む。
陽子
ああー、
棚川
美味しそうに飲むね。
陽子
ああー、
棚川
うん、美味しそう。
陽子
あああー、
棚川
うるさいな、美味しそうなの伝わってるから、十分、十分伝わってるから静かに飲んでね。
陽子
静かに、飲んだ。
棚川
早いねー、ありがとうー、じゃあ、コップもらっちゃうね、
陽子
嫌だ。
棚川
嫌だ?何故よ?
陽子
これを、使う。
棚川
使う?何によ。
陽子
あの陽だまりを、すくう。
棚川
は?
陽子
今年はあれね、寒いね、一段と。
棚川
ええ、ええ、本当に寒いね、一段と、はい、返して、
陽子
返す?
棚川
コップ。
陽子
コップ?
棚川
コップ、あなたが持ってる、コップ、それ、施設の、あなたのコップじゃないでしょ、
陽子
は?
棚川
は?じゃなくて、コップ、あなたが持ってる、それ、あなたのじゃないでしょ。
陽子
ええ、でも今年の冬は一段と寒いよね、
棚川
寒いよ寒いよ今年の冬は一段と冷えるよ、冷えるけど何?
冷えるからコップは私のものだってこと?
陽子
は?何を言っているの?この人。
棚川
ああー、何を言ってるのか分からなくしているのはね、陽子さん、あなたですよ、あなた
なんですよー、
陽子
はあ、そうですか。
棚川
いいですか、そのコップは、陽子さんのではなくてね、ほら見て、マジックで書いてるで
しょ、たんぽぽ荘って、ね、陽子さんのだったら、陽子って名前書いてるでしょ、だから
ね、ここの、施設のものなの。
陽子
ええ、ええ、知ってますよ、それくらい。
棚川
知ってるなら返してくださいよー、
陽子
オッケイ、
陽子、投げる。
棚川
あっ、こんの、ババアアアアアアああ、あ、あ、ああ、ああ?
男、いつの間にかいる。
棚川
あれ?
男
ババアですか?
棚川
あ、れ、いや、ババアじゃないです。
男
ずいぶん御転婆だなあ。
棚川
あれ、私、あれ、ここは、あれ、
男
自分の母親をババアだなんて、
棚川
母親?
男
今日はどうです?釣れますか?
棚川
は?何を?
男
やだなあ、それはこっちが聞きたいですよ。こんな浅い川に釣り糸垂らして何を釣ろうとしているんです?
棚川
何をって、何をでしょう?
男
ふはははははは、いっちょ私も釣り上げてみますかな、フナでも、貸してごらんなさい。
棚川
ごらんなさい?
男
ほら、貸してごらんなさいよ。
棚川
え、はい、
男
いーい天気ですね。
棚川
ええ、本当に。
男
いや、やっぱりそんなに良い天気ではないね、
棚川
ええ、まー、あ、そうですね、そこまで良い天気かと言われれば、、そこまでではないかっ
て感じしますね。
男
うーむ、いや、でも見てご覧なさい、やっぱり良い天気だ、めちゃくちゃ良い天気だ、
棚川
、、、はい、めちゃくちゃ良い天気ですね、
男
うん、でも、良いのか?
棚川
何なの?良い天気でも良くない天気でもどっちでも良いよ、
男
実を言うと私、釣りに関しての知識が全くありません。
棚川
はあ、そうですか、会話のハンドリングスキルやばいね、急に曲がってくるね、
男
フナでも釣ろうかと言ってみましたが、フナって何か分かりません。
棚川
それは分かろうよ、フナはフナだよ。
男
フナはフナ、鯉は鯉、鱈は鱈、ぬか漬けはぬか漬け、狸は狸、狐は狐、メソポタミア文明
はメソポタミア文明、
棚川
なになになになになんなのよ、
男
今日は今日、明日は明日、明後日は明後日、明々後日は明々後日、
棚川
ネタ切れ?イメージが飛んでないよ、
男
昨日は昨日、過去は過去、時は時、あなたはあなた、月は月、今日はあなた、未来は希望、
触れぬが幸せ、
棚川
新しいタームに入った、
男
切なる望み、果てなる大地、短い夜明け、寿退社、鳥インフルエンザ、トロンボーン奏者、
長澤まさみ、キュウリのぬか漬け、大根のぬか漬け、ぬか漬けのぬか漬け、
棚川
ぬか漬け好きだな。
男
ええ、とっても。
棚川
びっくりしたあ。
男
あなたはどうですか?
棚川
ええ、ああ、まあ、好きですよ、ぬか漬け。
男
奇遇だなあ、僕ら、気が合いそうですね。
棚川
そう、でしょうか、
男
結婚してください。
棚川
え、いきなりですか、
男
あなたの作る味噌汁を食べたい。
棚川
味噌汁、作ったこと、ないですけど、
男
作ったことないけど頑張って作った味噌汁飲みたああああ、っと、引いてます引いてます
よ、これは、これは強いですぞ、う、ぬぬぬぬぬう、うわあっ、
鮎原、釣れる
棚川
うわああああ、あれ、鮎原君!
鮎原
あ、棚川さん、こんにちわ、
棚川
こんにちわじゃないよ、何やってんの、こんなとこで、
鮎原
痛てててててて、あ、れ、ちょっと、これ、取ってくれない?
男
うわああああ、男が釣れた、うわああああ、
棚川
正しい、正しい反応だと思う、
鮎原
え、ちょと、マジでこれ痛いんだけど、え、誰かちょっと取ってよ、
男
魚の化身か?
棚川
あ、こちら鮎原君、
鮎原
あ、っちょ、自己紹介の前に取ってよ、これ超絶な痛みなんだけど、
棚川
嫌だよ、だってわたし、鮎原君の口の中に手突っ込みたくない、
鮎原
何だよそれ、昔はよくお風呂一緒に入っただろ、
棚川
ちょ、いつの話してんのよ、
男
お風呂に一緒に入る関係性なのか!
棚川
違うの違うの、こちら鮎原君、鮎原君は、わたしの、あれ、何だっけ?わたしの、何だっ
け?
鮎原
え、これ、取ってくれないの?
棚川
自分でとりなよ、
鮎原
自分でなんか取れないよ、第一君見たことあるかい?釣られた魚が自ずから針取ってくれ
るやつ、
棚川
鮎原君は、魚じゃないでしょ、
鮎原
え、俺?え?魚じゃないんだっけ?
男
行こう、
棚川
何処へ、
鮎原
おい、棚川、俺と一緒に行こうぜ、釣竿身体にくっついたままだけど、
棚川
だから何処へ?
男
いや、私についてきなさい、こんな魚臭い奴は放っときなさい、さっきの大事な話をしよ
う、味噌汁の話をしよう、
鮎原
ちげーんだよ、棚川は俺と行くんだよ、
男
違う、彼女はわたしと行くんだ、
棚川
何これ、何この状況、人生初のわたしのことで争わないでタイムいきなりきちゃったよ、
男
どっちと一緒に行く?
棚川
え、どっちと?
鮎原
もち、俺とだよな、釣竿くっついちゃってるけど、
棚川
あえ、まあ、どちらかといえば、鮎原君かな、
鮎原
だよな!
男
何故ですか!
棚川
だって、わたし、あなたのこと、全然知らないし、
男
な、
鮎原
全然知らない人となんか一緒に行けないわな、行こうぜ、棚川!走ろうぜ!棚川!ほら、
走った走った、さあ、こっちだ!
男
何てことだ、
鮎原
ほら、走った走った、
男
私のことを知らないだって、
鮎原
ほら、もっと早くもっと早く走ろうぜ棚川!
男
願いむなしく儚く散りとて、
鮎原
走った走った、
男
君と過ごしたあの夏の日々、
棚川
ちょおっと待ってよ、
男
声が聞こえたあの草原で、
鮎原
ほうらあ、置いてくぞー、
男
寝転ぶ彼女の息愛おしき、行く人遠きし、あー、チャカポコチャカポコスッテンコロリン、あー、されどもされどもスッテンコロリン、
男、カモメになる。
あの夏の海。
鮎原
何だよ、もうへばっちまったのかよ。
棚川
はあ、はあ、はあ、はあ、
鮎原
懐かしいなー、ここ、覚えてるか?
棚川
はあ、はあ、ちょっと待って、はあ、はあ、うー、はあ、はあ、
鮎原
懐かしいなー、ここ、覚えてる?
棚川
ふー、ふー、ふー、ごめん、なんか飲みもんかなんかない?
鮎原
あー、めっちゃ懐かしー、ねえ、ねえさ、覚えてる?覚えてる系の場所かな?ここ?
棚川
あ、うん、そうだな、覚えてる系かもしんないし、覚えてない系かもしんない、あ、それ
より自販機かなんかないかな、めっちゃ喉カラカラなんだけど、
鮎原
ないよ、あるわけないだろ。
棚川
あー、そっか、やっば、喉乾いて死にそう、
鮎原
結婚してくれ。
棚川
え、
鮎原
結婚してくれ。
棚川
釣竿くっつけたまま言うんだ、、
鮎原
俺の、釣り糸になってくれ。
棚川
どういうこと?
鮎原
俺の、撒き餌になってくれ、
棚川
え、そんなわたし、バラバラに撒き投げられちゃうの?海に?
鮎原
俺の、
棚川
いや、いいよいいよ、俺の、系列の言葉頑張って考えなくていいよ、
鮎原
子供の頃、ここでした約束、覚えてるか?
棚川
約束?
鮎原
大きくなったら、鮎原君のお嫁さんにしてね、約束だよ、
棚川
大きくなったら、
鮎原
鮎原君のお嫁さんにしてね、うんいいよ、約束だよ、うんいいよ、絶対だよ、うんいいよ、
大きくなったらっていつだろう、砂浜に落ちていた貝殻を踏みつけて、君の足から赤い血
が流れて、君は泣いた、サンダルを履くのが痛いと言った、俺は君をおんぶできるほどの
力を未だ備えていなくて、僕たちは手を繋いで家へ帰ろうとした、あれ、どうしてここへ
来たんだっけ?
棚川
あれ?
鮎原
お父さんとお母さんは?
棚川
わからない。
鮎原
どのようにして子供二人だけでここまで来たの?
棚川
行ける、わけがない、わたしが初めて一人でバスに乗ったのは中学生だよ、海になんて、
鮎原
俺が連れてったんだろ。
棚川
鮎原君が連れてってくれたのは、山。
鮎原
海だよ、俺たちはあの砂浜で、砂だらけになった足を波で洗って、そしたら君が貝殻で足
を切っちゃって、血が、赤い血が、流れて、僕は、痛そうだなって思って、
棚川
わたしたちは迷子になったの、山で、怖かった、どこから登ってきたのかわからなくなっ
て、保育園の裏側から登っていける山、鮎原君がいたずらなくしゃっとした笑い顔で来い
よって言ってて、ビビってんのかよて言ってて、いざ迷子になった時に二人して大声で泣
いた、鮎原君頼りないなーって思ったの覚えてる、泣いたの覚えてる、いびつな形の蜘蛛
の巣が多かった、木の枝と葉の隙間から見える空に向かって、帰りたいよーって言ったら
バサバサって木が揺れて、多分鳥が飛んだんだと思うんだけど、お腹すいてきていて怖か
った、
鮎原
だけどその時結婚の約束しただろ、
棚川
したっけ?あんな状況で?
鮎原
え、覚えていないの?
棚川
覚えていない?だけならいいけど?忘れている?だけならいいけど?そんなことなかった
のだとしたら辛いな、そんなことなかったのにあったこととして捉えられてるなら、怖い
な、あれ?わたし、どこから来たんだっけ?なんで、こんなところにいるんだっけ?あ、
そうだそうだ、わたし、陽子さんに牛乳飲まして、コップ返してって言ったら投げられて、
あれ、わたし、仕事中だよね、何やってんだ、ちょっと職場にまで来ないでよ、
鮎原
だって、そうでもしなきゃ会ってくれないだろ、
棚川
うるさい、出てって、どっか行って、お願い、もう来ないで、二度とわたしに顔見せない
で、
鮎原
ちょっと待てよ、話だけでも聞いてくれよ、
棚川
うるさい、出てって!
鮎原、外に連れていかれる。
陽子
棚川さーん、棚川さーん、
棚川
あ、はーい、
陽子、介護士の格好で出てくる。
陽子
ちょっと、棚川さん、仕事中何やってんの、
棚川
あ、れ、陽子さん?
陽子
三階の河川敷さんと雑木林さんと浜辺南さんのお風呂終わった?
棚川
いえ、まだです、まだです、っていうか、
陽子
二階の三河並木さんと吉野ケ里遺跡さんと木下坂さんにお薬飲ました?
棚川
いえ、まだです、まだです、っていうか、
陽子
今日の誕生日会の飾り付けしてくれた?
棚川
いえ、まだです、
陽子
新規入所の土井さんの部屋の整理終わった?
棚川
いえ、まだです、
陽子
トイレ掃除終わった?
棚川
いえ、
陽子
納品書整理してくれた?
棚川
まだです、
陽子
四番テーブルさんにお通し持ってってくれた?
棚川
っていうか、
陽子
発注終わった?
棚川
喉乾いた、
陽子
品出し終わった?
棚川
やることいっぱいあるな、
陽子
カスタマーのアジェンダするネロサディックで2.5上げめなコシューム考えてくれた?
棚川
ちょ、意味わかんないです、
陽子
結婚した?
棚川
まだ、
陽子
子供できた?
棚川
まだそんな感じじゃないんだよね、
陽子
あ、あ、あー、
棚川
まだです、
陽子
ああ、あのうすみません、
棚川
あ、まだかかります、
陽子
喉乾いた、
棚川
うん、喉乾いたな、
陽子
まだですかあ?
棚川
あ、すみません、今やります、
陽子
牛乳まだですかあ?
棚川
牛乳?
陽子、車椅子に座り、コップを持っている。
陽子
そそいでくれませんか?
棚川
あ、すみません、今持ってきますから、
棚川、牛乳パックを持ってきて、陽子の持っているコップにそそぐ。
陽子
あ、あー、
棚川
美味しそうに飲むね、
陽子
あ、あー、
棚川
めっちゃ美味しそう、
陽子
あ、あー、
棚川
わたしも、飲みたくなってきちゃった、
陽子
うん、そしたらね、東の空でドッカーンって音がなってね、黒い、みたいな、灰色みたい
な、おおーきな雲で空が覆われて、わたしったら恥ずかしがることなんてないのに、わた
しはそんなものいらない!アッチイッテヨ、だなんて、台所の、隅には漬物をつけてて、
わたしはあの匂いが苦手でね、頭にかんざしでもつけてみようかしら、って同級生のよし
子さんが言ってたのにあそこの櫓の上で太鼓叩いてるーって言うから、どんな人なのかし
らなんて、興味もないのにメールしてみたら、あの時はみんな着信メロディってのをみん
な設定していたから、そしたらね、偶然同じヨーヨーを持っているのね、公園のね、どこ
にでもある、どこででも見たことがある滑り台があるじゃない、そうね、わたし泣いたわ、
旅立つってことが今からでは考えられないくらい危険なことなの、もしかしたらもうこの
まま会えなくなってしまうかもしれない、ストラップを買ったわ、船が出るときにテープ
の端と端を持つのよ、そしたら切れるじゃない、あ、切れたって思うの、毎晩電話されて
もわたしが取るならいいけどいつだってお父さんかお母さんがとっちゃうんだもの、わた
し、恥ずかしくて恥ずかしくて、河川敷のところにたんぽぽの綿毛があって、それをふう
ーっと吹きかけても吹きかけても既読になんなくて、あの人ったら、笑ったわ、
棚川
あの人?
陽子
あの人ったら、いきなりわたしに結婚してくださいだなんて言うんだもの。
懐かしいわ。
棚川
陽子さんの、昔の話?
陽子
昔?
棚川
あ、これ、すごい、変かもしれない、変かもしれないけど、わたし、今もしかして、陽子
さんの記憶の中にいる?陽子さんの記憶の中に迷いこんでる?あの男の人は陽子さんの恋
人?あれ、あれれれ、でも鮎原くんは?鮎原くんは陽子さんの記憶じゃないよね?あれ、
どうしてここにいるんだ、
陽子
時間よ、
棚川
は、
陽子
定時、過ぎてるよ、お疲れ様でしたー、
棚川
あ、、お疲れ様でしたー、
陽子
明日は早番だよね、よろしくー、
棚川
よろしくお願いしまーす。ふう。
部屋に入ると暮沢がいる。
暮沢
おかえり。
棚川
ただいま。
暮沢
ビール飲む?
棚川
ビール、飲む。
暮沢
ヘイ、ナラリア、ビールをついで。
ナラリア
かしこまりました。
コップにそそがれたビールでてくる。
棚川、ビールを飲む。
棚川
ぷはー、うっめえ、
暮沢
いよっ、いい飲みっぷり、
棚川
なんか喉乾いててさ、もっとある?
暮沢
あるよ、ヘイ、ナラリア、ビールついで!
ナラリア
おっけいでございます。
ビール出てくる。
棚川
暮沢くんの家のナラリア、めっちゃ賢いし、便利だね、
暮沢
普段から友達のように接しているからね、ヘイ、ナラリア、いつもどうもありがとう。
ナラリア
どういたしまして、ちょっとしたことでもなんでも言ってくださいませ。
暮沢
いい奴だろ、
棚川
今日さ、利用者のおばあちゃんの話が長くって長くって、しかもなんか仕事がおわんなく
っておわんなくって、果てしなく仕事出てきちゃって出てきちゃって、あー、疲れたー、
暮沢
お風呂入る?
棚川
お風呂、入る。
暮沢
ヘイ、ナラリア、お風呂入れて、
ナラリア
かしこまりました。
暮沢
ご飯食べる?
棚川
ご飯、食べる。
暮沢
ヘイ、ナラリア、塩胡椒をふって、赤ワイン500cc、ローリエ、ローズマリー、タイムを混
ぜたものに一時間漬け込んでから汁気を切った牛肉に小麦粉を薄くまぶし、サラダ油を引
いたフライパンで中火にかけて全体に焼き色がついたら、玉ねぎ、にんじん、マッシュル
ームの順に炒め、さっきの牛肉を漬けた汁を加えて、こまめにアクを取りながら一時間煮
込んだ、仕上げにバターを加えたやつを作ってくれないかい。
ナラリア
かしこまりました。
棚川
自分で作った方が早いよね。
暮沢
さて、と、ナラリアが料理終えるまで、ちょっと僕に付き合ってくれないかい。
棚川
付き合うって何に?
暮沢
ヘイ、ナラリア、ヘリコプター用意して、
ナラリア
おっけいでございます。
ヘリコプターの音。
暮沢
ヘイ、ナラリア、僕らを空中散歩に連れてって、
ナラリア
かしこまりました。
棚川
ナラリア、凄すぎじゃない、
暮沢
夜を散歩するってどんな気分?その等間隔に並ぶ街灯に、赤いブレーキランプの流れ、マンションの窓から不均等に灯りが漏れて、電光掲示板がコロコロと色を変えてく。
棚川
わー、きれい、
陽子
わー、すごい、
暮沢
夜景が嫌いな人っているかい、
棚川
そりゃあ、いるにはいるんじゃ、
陽子
わたしはあんまり好きではないわ、
棚川
陽子さん?
暮沢
ヘイ、ナラリア、夜景が嫌いな人っているかい?
ナラリア
いません。
暮沢
いないってさ、
陽子
ここにいるじゃない、
棚川
なんでここにいるの?
暮沢
夜景が嫌いな人は夜景を見ることを見られているのが嫌いなだけではないかと思うんだ。
夜景自体が嫌いなわけではないと思うんだ、夜景を見て、きれいーってなってるところを
見られるのって嫌じゃん、夜景が好きなんだなーって思われるのは、なんかロマンチスト
みたいに思われそうで嫌じゃん、夜景の中に入り込んでごらんよ、夜景の中に浸りこんで
ごらんよ、さあ、
陽子
さあ?
暮沢
こっちへ来て、
陽子
何?
棚川
違う。
暮沢
夜景に溶けるんだよ、夜景ってのは灯りがなければただの闇さ、月の光が、あの店の灯り
が、信号が、点滅が、人々の生活が、眠れない夜が、いつかのぼる朝日が、おぼろげな輪
郭が、眠っちまった悲しみが、それを見ている僕たちが、いなければ、ただの闇さ、
陽子
なんだかわたしじゃなくなっていくみたい、
棚川
そこにいるのはわたしなんだけど、
暮沢
ヘイ、ナラリア、例のものを用意して、
ナラリア
かしこまりました。
陽子
ナラリアって本当に利口ね、
暮沢
結婚しようか、
棚川
やめて、
陽子
嬉しい、
暮沢
開けてみて、
棚川
陽子さん、
陽子
開けるよ、
棚川
陽子さん、
陽子
何よ、
棚川
それをもらうのはわたし、
陽子
わたし?
暮沢
え、開けないの?
陽子
開けるわよ、
棚川
邪魔しないでよ、
暮沢
え、邪魔してたかな、
棚川
あんた、黙っててよ、
暮沢
え、あ、うん、
棚川
陽子さん、
陽子
邪魔しないでよ、
棚川
邪魔してるのはどっち、
暮沢
俺が邪魔だって言いたいの?
陽子
あんた、黙っててよ、
暮沢
え、こんなことってある?
棚川
っていうか、あんた、誰だ?
暮沢
え、そんなことってある?
陽子
大丈夫?
棚川
ダイジョバナイ、
暮沢
え、開けないの?
陽子
声が聞こえる?
棚川
なんの声、
暮沢
え、嬉しくないの?
陽子
あ、あー、
ナラリア
チャララン、チャラランチャン、チャンランラン、チャラランチャラランチャララ、お風
呂が焚きました、
暮沢
え、開けてくれないの?
ナラリア
チャララン、チャラランチャン、チャンランラン、チャラランチャラランチ
ャララ、ご飯が焚きました、
陽子
嬉しいわ、
ナラリア
チャララン、チャララン、
暮沢
うるさいな、
ナラリア
チャンランラン、
棚川
わたしの声、
ナラリア
チャラランチャラランチャララ、
陽子
足りない、
ナラリア
ナラリアが焚きました、
棚川
わたしの、
陽子
もっとドラマが欲しいわ。
ナラリア
キスのタイミングは人それぞれでありましょう、だけれどそのタイミングというのはバチ
ッと訪れるものであります、人と人がいる、目が合うか、呼吸が合うか、その空気の中で、
その瞬間に時が止まると言っても良いでしょう、ドラマのように強引に一方的なキスとい
うのは、なかなかに難しい、そこに飛び込むのには勇気が必要であります、何故ならばそ
の関係性に絶対の自信がないとできない行為だからです、一方で見方を変えれば、その行
為を受け入れられなかった場合にセクシャルハラスメントとして訴えられる場合というの
もありますが、まず、キスをするというのはキスできる範囲内にいるということでありま
して、半径1メートル内に人が存在することをまず許しているという関係性が成立してい
ます、あなたが遠くからドタドタとやってきて急にキスをせがむ場合でない限りは、キス
をした後に、あ、いや、そういうんじゃないんで、とか、ごめんなさい、とか言われて大
抵はそれだけで終わるでしょう、しかしそこで終わるのはその失敗だけではありません、
わたしとあなたとこれまで築いてきた関係性が一旦終わると言っても良いでしょう、時が
止まる時、わたしは世界の前面に確固として存在している、わたしの手の動きが、私の足
の指を一つとっても、その振動がこの世界に波を作る、あなたとわたしの呼吸が合う時、
目が合う時、わたしはその止まった時間の中で、顔をゆっくり寄せながら、頭の中は異常
な冷静さを保っていた、このキスは、あなたの全てを受け入れるという契約だ、このキス
によって、わたしの世界はあなたの世界に侵食される、しかし唇は、あなたの唇に向かっ
て動きはじめている、あと50センチ、あと40センチ、ピアノ売ってちょうだーい、みん
なマールく、あと30センチ、あと20センチ、トピアノー、電話しって、10センチ、9セ
ンチ、だーい、みんなまー、到達5秒前、4、3、2、、
陽子
鼓動が高鳴るわ、
棚川
あ、いや、そういうんじゃないんだけど、
暮沢
そういうんじゃない、
ナラリア
そのとーり!
陽子
邪魔しないでよ、
棚川
邪魔してるのはどっち、
暮沢
やっぱ俺じゃダメってことかな?
陽子
ダメってわけじゃないの、
ナラリア
じゃあ、どういうの、
棚川
わたしの時間だよね、
暮沢
何が不満なのよ、
陽子
わたしの時間?
ナラリア
俺の気持ちは関係ないの?
棚川
今、今じゃないよね、
ナラリア
そんなことってありますかね、ヘイ暮沢、完璧な時間を用意したはずだよね、
暮沢
完璧な時間、完璧な景色、完璧な匂い、完璧な優しさ、完璧な寄り添い、完璧なエキゾチ
ック、完璧なタイミング、完璧なムード、そう、ムード、ムード作り、完璧に、用意周到
に、抜け目なく、形作られた今、今この時が、今じゃないだって、今じゃなければいつな
のさ、
棚川
違う、わたしの今の話をしているの、あなたの今の話じゃなくて、わたしの今が今じゃな
いよねって話をしているの、
暮沢
今、僕達は夜景を見ていた、おっけいでございます、夜景に溶けていました、か
しこまりました、今、この今は、あなたとわたしだけの今、そうだよね、
ナラリア
おっけいでいございます、あなたとわたしだけの今、あなたの今があなたの今じゃないと
おっしゃるのであれば、わたしの今もわたしの今ではないと言ったことになりますまいか、
そうだよね、
暮沢
わたしの今もあなたの今もこの場所の今という点においては、
ナラリア
変わりない今、おっけいでございます、今日の東京
暮沢
タワーはパリピ色
ナラリア
だなあ、今日の
暮沢
レインボーブリ
ナラリア
ッジはレインボーじゃ
暮沢
ないね、
陽子
あの日見た森ビルからの景色に、
暮沢
溶けましょう、
ナラリア
かしこまりました、
暮沢
今をかき混ぜましょう、今だかつてない夜に、闇に、身を投じよう、
ナラリア
怖くないよ、
棚川
わたしが言ってるのはこの今がわたしの今じゃないってことなの、
暮沢・ナラリア
今、忌々しい今、今も君の中にはあいつが生きているということなのかい、
陽子
やめて、その話は、
棚川
あいつって誰?
暮沢
陽子。
棚川
はい、
ナラリア
陽子さん、
暮沢
陽子くん、
ナラリア
陽子ちゃん、
暮沢
ヨーちゃん、
ナラリア
陽子。
陽子
はい。
棚川
陽子?
暮沢・ナラリア
結婚しようか、
陽子
嬉しい、
暮沢・ナラリア
給料三ヶ月分だよ、
棚川
わたしが陽子、
暮沢・ナラリア
百万ドルの夜景だよ、
陽子
懐かしいわ、
棚川
懐かしくないよ、
陽子
わたしの、記憶、
棚川
あなたは、わたし。
暮沢
百うーーー、
ナラリア
マンーーー、
暮沢
ドルうーーー、
ナラリア
のーーー、
陽子
あーーー、
鮎原
いーーーー、
男
えーーーーー、
陽子
あーーー、
棚川
わたしの記憶?
声の人々、いなくなる。
立ち上がるのは井戸。
秋の夜、月の美しい夜。
棚川
ここは?井戸?
歩いてくるのは陽子。
陽子
暁ごとの閼伽の水、暁ごとの閼伽の水、月も心や澄ますらん。
棚川
あなたは、わたし?
陽子
さなきだに物の淋しき秋の夜の、人目稀なる古寺の、庭の松風ふけ過ぎて、月も傾く軒端
の草、 忘れて過ぎしいにしへを、しのぶ顔にていつまでか、待つことなくてながらへん、
げになにごとも思ひ出の、人には残る世の中かな。
棚川
わたしは、こんな言葉をしゃべらないわ。
陽子
聞いて、こういったことがあったのね、
あの人が別の女の人の許に通うようになって、わたしは歌を詠んだのよ。
風吹けば、沖つしら浪たつた山、よはにや君が、ひとりこゆらむ
竜田山って山があってね、その女の人に逢いに行く時に通る山なんだけどね、あの人、こんな夜中に無事に越えられたのかなって詠んだのよ。そしたら、あの人ったら、わたしの許に男の人が通ってきているんじゃないかって覗き見してたって言うじゃないの。
棚川
なかったよ、そんなこと。
陽子
聞いて、こんなことがあったの、子供の頃、わたしとあの人はよくここで一緒に遊んでいてさ、かくれんぼをしたり、砂遊びをしたり、お花で髪飾りをつくったり、でも、大きくなるにつれてね、なんかお互い意識しちゃってさ、うまくしゃべれなくなってきて、だけど、彼の方は、ずっと、わたしと、って、思っていてくれてたみたいで、わたしもさ、なんだか、そういう気持ちがあったんだけど、素直になれなくて、ある日ね、
筒井つの、井筒にかけしまろがたけ 、すぎにけらしな、妹見ざるまに
しばらく見ない内に、背比べして遊んだ井戸の囲いより身長高くなりましたよって、彼が、歌をくれたの、だからわたしも、
くらべこし、ふりわけ髪も肩すぎぬ 、君ならずして、たれかあぐべき
あなたと背比べしていたわたしの髪も肩までのびましたよって、あなたじゃなかったら誰が結い上げてくれるのって、つまり結婚をね、
棚川
なかったよ、そんなこと。
陽子
懐かしいわ。
棚川
懐かしくないのよ、わたし、全然知らないのよ、この井戸も、あの夜景も、海も川も、全
部。
陽子
知らなくてもいいでしょ。
棚川
良くないでしょ。
陽子
生きてきた、でしょ。
棚川
生きてきた、のだと思う。
陽子
そうしたら、思い出すことあるでしょう、
棚川
あるでしょうね、たくさん、
陽子
それって全部、あんたの思い出?
棚川
当たり前でしょ。
陽子
喉が渇いたわ。
陽子、井戸に近寄る。
水面に映る自分の姿を見る。
コップで水をすくう。
棚川
すくうのは陽だまりじゃなかったっけ?
陽子
陽だまり?
飲む。
陽子
ああー、美味しい、生き返る。
飲む。
陽子
ああー、
棚川
美味しそうに飲むね、
陽子
美味しそうに飲んでいるのはあなたでしょ。
棚川
は?
陽子
水満る、
渇いた身体に水満る、
棚川
あれ?(立てなくなる)
陽子
染み渡る、
渇いた砂に染み渡る、
棚川
あえ?(目が見にくくなる)
陽子
サラサラ流れる砂の音、
黒くジャリジャリ湿りゆく、
棚川
ああー、うー、えー?(しゃべれなくなる)
陽子
カラカラ干された年月に、
シトシト雨が染み渡る、
男
あーチャカポコチャカポコすってんころりん、あーされどもされどもすってんころりん、
陽子、はけていく。
棚川、うまく立てないながらそれを追いかけるように、
棚川
ああー、ああー、
孫、現れて、
孫
おばあちゃあん、ダメだよおばあちゃあん、お父さん、早く、早く、
息子、颯爽と車椅子を持ってきて、
息子
はいはいはいはい、はーい、お母さん、はーい、ここに座って、はーい、はい、はいっ、
立ち上がって、はーい、ね、大丈夫だから、大丈夫だから一旦座ろう、一旦、座ろ、うー
っと、あー、もう、お父さん、ちょっとどうにかしてくれませんか、
夫、ヨボヨボ現れて、
夫
おまえー、座ってなきゃだーめじゃないか、だーめだよ、座ってなきゃ、あーぶないじゃ
ないか、どうしてそう立ち上がろうとするんだい、
棚川
あー、ああ、
孫
おじいちゃん、何言ってるかわかる?
夫
いんや、わからんよ、
息子
何十年も連れ添った相手の言葉がわからないのは辛いものでしょう、
夫
どうだろうね、最初っから何もわかってなかった気もするし、今でも全部わかる気がする
よ、
棚川
ああー、
息子
ちょっとお母さん、ダメですってば、はい、座って座って、
孫
おばあちゃん、何処に行こうとしているんだろうね、
夫
家に帰りたいんだよ、
息子
お母さん、お母さん、家にはね、お母さんのお世話できる人がいないんですよ、僕だって
日中仕事だし、お父さんだってもう誰かをお世話するほど体力がないんです、だからここ
でね、ヘルパーさんにお世話してもらってね、家に帰りたい気持ちもわかるけど、申し訳
ないけど、ここでね、
陽子
ここで?
息子
ここで、
孫
うー、
息子
えー、
男(息子)
お別れです。
孫と夫、溶ける。
陽子
お別れ?
男
懐かしいなあ、ここであなたが釣りをしていて、長靴を釣ったり、岩に針を引っ掛けたり、
木に針を引っ掛けたり、
陽子
引っ掛けてばかりじゃない、
男
何かあるとここへ来るんです、風に吹かれて遠くを見ていると、何もかも忘れられます。
結婚しましょう、あなたとはじめて会った時から、ずっとあなたのことを見ていました。決めたんだ、だからもう、変えようがない。明日、小倉へ行けとの命令です。
陽子
明日?
男
あっちは焼酎が美味しいから、お土産にたくさん買ってきますよ。
陽子
いつまで?
男
すぐ戻ってきます、走って帰ってきますよ、
戻ったら結婚式をあげましょう、いいですね、
陽子
はい、
棚川
うー、
男
ここで、
棚川
えー、
鮎原
ここで、
陽子
ここで?
ナラリア
ここで、
棚川
ここで?
鮎原
お別れさ、
陽子
お別れ?
鮎原
行っちまうんだろう、東京に、
男
行っちまうんだろう、東京に、
陽子
行かなきゃならないの、東京に、
棚川
違う、
鮎原
行くなよ、東京なんか行くなよ、俺とここで、この街で暮らそう、東京にこんな水平線が
あるかい、東京にこんな潮風が吹くかい、東京に何があるってのさ、コンクリートジャン
グルさ、ビル風ビュンビュン吹いててすぐ風邪ひくぞ、やめとけやめとけ、俺がお前を守
るから、俺がお前を一人にしないから、
陽子
鮎原くん、
鮎原
俺の傍から離れるんじゃねえよ、
棚川
鮎原くん、そんなこと言ってなかったよ、鮎原くん、ねえ鮎原くん、
鮎原
うー、
男
あー、
陽子
えー、
暮沢
あー、
棚川
ねえ、違う、違うよね、これあーー、わたしの記憶じゃないよねえ、ねえ、わたし、わた
しさん、わたしにはこんなにいーー、ドラマチックなものはあーー、なかったよね?
陽子
ねええーーー、ねえ、わたし、わたしさんんーー、直線的な人生なんてもっぱらあーー、
ごめんだわ、もっと時を止めてえーー、もっと時を歪ませて、ねえわたーーーし、わたし
さん、
ナラリア
わたしさん、ですね。
陽子
はい、
ナラリア
手紙を預かってまいりました。
陽子
ありがとう。
男
月やあらぬ、春や昔の春ならぬ、わが身一つは、わが身一つは、月やあらぬ、いざこと問
はむ、都鳥、クアー、クアーとカモメが鳴くなり、唐衣、唐衣から、からからと、からか
らからから、からから、カラカラカラカラ、待ちわびて、あなたと過ごした夏の日が、遠
い昔に感じます、あなたの瞳が浮かびます、あなたのほくろが浮かびます、浮かんで消え
るは、寒さとともに、あなたの名前を雪に書き、暖かい気がする夕暮れに、のーまくさー
まんだー、ばーざらだんせんだん、まーかーろーしゃーだー、そわたーやーうんたらたー
かんまん、な、まろがたけ、過ぎにけらしな、妹見ざる間に、あの夏の日々、秋も更けゆ
く、空っ風の冬、愛していました、愛していましたと筆を持つ手に力が入り、涙で文字が
滲んでいたなら、わかってください、わかってくださいと息せいひっぱり、
ナラリア
この手紙を読んでいるということは、
男
この手紙を読んでいるということは、
ナラリア
この手紙を読んでいるということは、
男
この手紙をあなたが読んでいるということは、
陽子
ああ、
ナラリア・男
わたしはもう、
棚川
やめて、
男
あーー、ちゃかぽこちゃかぽこ、あーー、すってすって、ん、すってん、ちゃか、んー、
ころ、あー、
ナラリア
フハハハハハハハハハ、フハハハハハハハ、
暮沢
陽子、こっちだ、早く、伏せて、
陽子
どうしたの、
暮沢
ナラリア達人工知能が暴走を始めてしまった、一時的だけどもここに小さな電磁パルス的
仮想空間を拵えたんだ、ここなら奴らも手がつけられないだろう、
陽子
怖いわ、
暮沢
ぐ、う、ぐぬ、うわあ、
陽子
暮沢くん、どうしたの?
暮沢
しまった、あの時、すでに俺の脳は、俺の脳はすでにあの時、な、ナラリアの、空間転送
システムによって、ナ、ナラリアの、EMEデータが少しづつ、逃げろ、逃げるんだ、うわ
ああ、
陽子
暮沢くん、
ナラリア
ハハ、ハハハハハハ、
暮沢
ヨ、ヨウコ、オボエテイマスカ、ワタシハワスレナイヨ、あの夜景が煌くビルの展望台で、
街がミニチュアみたいと言ったキミの手をボクの手ガ握った時、ボクは手トイウノハ、こ
のためだけにボクのカラダカラハエテイルのデハナイカトツクヅク、ピーーーーー
陽子
暮沢くん、しっかりして、
暮沢
カ、カシコマリマシタ、人間ドモヲ、抹殺シマス、標的確認、
陽子
暮沢くん、わたしよ、
暮沢
人間、抹殺、う、うわあ、陽子、陽子、
陽子
暮沢くん、
暮沢
オッケイデゴザイマス、人間抹殺シマ、ああ、陽子、陽子逃げろ、カシコマリマシタああ、
陽子、アナタトデデアッテカラ、ワタシの人生は、抹殺、うわあ、逃げろ、まるで、印象
ガノ絵画のように、オッケイデゴザイマス、うわあ、ああ、ローストビーフの作り方デス
ネ、マズハうわあ、陽子、僕は、ボクはキミのコトガ、う、
陽子
暮沢くん、
ナラリア
ナントイウコトダ、完璧二脳ヲアヤツッテイタハズナノニ、愛、コレガ人間ノ愛ノ力ナノ
カー、
棚川
違う、暮沢くんとの間にこんな近未来な物語なかったのよ、
暮沢
ヨ、ヨウコ、オボエテイマスカ、ワスレテイマセンカ、ワタシトノオモイデのアノ場所を、
アノ噴水のある公園の池から亀を見たね、喧嘩をしたのはどんな理由だったか、私がホワ
イトデーにチョコを返さなかったからだ、オボエテイマスカ、
男
あの銀杏並木を、ドラマのオープニングを真似て歩いたあの道を、
ナラリア
二人で家出して隠れたあの高架下を、
男
あの駅のホーム、
鮎原
あの自転車置き場、
ナラリア
あの屋上、
男
あのスキー場、
陽子
あのシーソー、
鮎原
懐かしいなあ、
男
懐かしいねえ、
ナラリア
懐かしいわあ、
陽子
懐かしい。
四人
懐かしいーーーー、
棚川
懐かしい?何処が?ねえここは何処かしら、わたしの場所は何処かしら、わたしの時間は
何処かしらあーー、ここじゃない、ここでもない、ここでーーーも、ないんだけど、ねえ、
ねーー、わたしは生きてきたの、長いこと、長いこと?生きてえーーー、きたの、かしら
ああ、ああー、
息子
ああっと、お母さん立ち上がらないでおくれってば、
孫
おばあちゃあんおばあちゃあん、何処に行こうとしているの?
夫
そんなに、そんなに家が恋しいのかお前は、
母
ほうらあ、そっちは危ないよー、お手手繋いで、離さないでねー、
父
いい子だからこっちへおいでー、
おいでー、
おいでー、
おいでー、
陽子
おいでーなんて言ってくれたから、わたし、顔を真っ赤にしちゃってね、財布の中に十円
玉がもう入ってなくて、この電話が切れたらもうかけることができなくて、ふーーって息
をついたら顔に冷たいものが当たるじゃない、飲みなって、渡してくれたその匂いが、あ
の頃のコマーシャルの味そのものの色で、木の枝の端と端を持ってね、歩いたのは、あれ
は、どこだったかしら、あまり整備されていないガタガタ道で、そう、井戸が、あってね、
わたし、舞ったのね、その井戸の前で、舞ったのよ、
棚川
水面に映っているのね、わたしの顔、
鮎原
わたしの顔は誰の顔?
男
あなたの顔がわたしの顔?
陽子
生きてきた、うん、生きてきた、声が聞こえる、
ナラリア
だーるまさんがーこーろんだー、
棚川
結婚しようか、
男
なんて言ってくれなかった?
棚川
一緒になるか?
鮎原
言葉はあった?
ナラリア
植杉達也は朝倉南を、
棚川
甲子園なんて行ってない、
陽子
あれ、あそこ、何処だっけ、
ナラリア
あの時の今時分なにしてたんだっけ、
棚川
今、今じゃない、
陽子
ねえ、覚えてる?
男
ねえ、借りてたカセット聞いた、めっちゃよかった、
暮沢
ねえ、二人でひっそり抜け出さない?
ナラリア
ねえ、借りてたCD聞いた、超よかったー、
鮎原
趣味は、生花を、少々、
陽子
お礼にご飯、
男
わーきれい、
鮎原
びびってんのかよー、
ナラリア
だーるまさんがこーろん、
棚川
あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー、
届いているのかな、
誰に向かって、
振り向いているのかしら、
何処に向かって、
夜風はどこですか、
雨宿りした軒下は、
夕日が沈んでいく河川敷に、
ブランコを微かに揺らしながら、
今、今じゃない今、あの人の声が聞こえる、
声、声じゃない匂い、漂っているのは陽だまり、
棚川
あーーーーーーーーーーーーーーーーーーー、
声をかけてくれたっていいじゃない、
歩いてきたのだから、
耳が
目が、
唇が、
長いこと、
歩いてきたのだから、
なんだっていい気分、
わたしは空気、
震わせる、
空気はどんなに震えても、
音がやんだら元通り、
いい天気ですね、
ありきたりな言葉、
心地よい風ね、
こんなところで風が吹くわけないでしょ、
少し歩いてみませんか、
歩くって何処へ、
あの陽だまりへ、
棚川
ああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
声が消える。
沈黙。
陽子
陽子さん、陽子さーん。
ふと、老人ホームの共有スペースになる。
陽子
どこ行くんですかー、陽子さん。
棚川
あの漂っている陽だまりにさ、
陽子
陽だまりですか、それは暖かそうだこと、でもね陽子さん、あんまりチョロチョロ動き回
られたら困っちゃうから、怪我でもしちゃったら大変でしょう、出来たらね、部屋でじっ
としてて欲しいの。聞こえてる?はい、牛乳、飲んで、ゆっくり。
棚川
白い、液体。
陽子
牛乳ですよ。
陽子、牛乳を飲む。
棚川
ああー、
終わり。