稲垣和俊戯曲集

戯曲集をここに。まさかのここに。

行人日記

原沢から智春へのビデオレター


世界は少しづつ拡張していて、私は少しづついなくなっていく、どうも。原沢です。智春くん、お久しぶり。君が頼んできたように、君の兄さんとの旅行のことについて、話していこうと思う。君や奈々江さんのことを考えるとね、すぐにでも連絡すべきだと思っていたのだけども、なんだか電話する気にもならなくて、手紙でも書こうと思ったのだけども、シャープペンシルも見当たらなくて、こういう方法で、映像を手紙代わりに、してみようというちょっとした思いつきで。だけどもとりあえずは順を追って話していこうと思う。僕たちが旅行先を能登に決めたのは康之からの提案でね、今後人生で行かないであろう場所に行こうという提案のもと、それぞれグーグルマップを見て行った経験もなければ今後行く予定もないであろう山奥とか海辺の辺りの宿屋を適当に探して、候補を何個か出したうちの一つというわけなのだけれども、山だとか海だとか畑だとかにまみれて、ただただ自然を堪能するのに最適だといった場所で、着いてからしばらく、村長だかなんだかのおじさんが貸してくれた電動自転車に乗ってうろちょろしながら、海を眺めたり、山を眺めたり、草がボーボーに生い茂った神社でお参りしたり、一軒だけジェラートが有名なお店があってね、そこでアイスを食べてりして、すぐに1日目は過ぎていきました。あくる日のことでした。特に何もすることもなく、仕方なくもう一度ジェラートの行列に並んでいる最中、屋根付きのベンチに座ってジェラートを食べている子供連れの家族やらアベックやらサイクルウェアに身を包んだ集団の人々を眺め、あの人達のようになりたい、と康之は言うのです。あの人達は何も考えていない、ただありのまま、自然のままの存在でジェラートを楽しんでいるではないか、と行列から離れスタスタと歩いて行ってしまう。私はピスタチオ味のジェラートが食べてみたかったので、追いかけて連れ戻そうと、あーだこーだ言ってると突然、彼は私の右肩を押してきました。後ろによろけた私に向かって、もう一度、より強い力で私を押す。私は彼からこういう風な行為を受けたことがなかったので、何が起こったのか、全く状況が把握できませんでした。君の行為は誠意を装う偽りに過ぎない、と彼は言いました。そして自転車に乗って何処かに行ってしまう。私は呆然としていました。少し時間を置いたほうがいいかもしれないと思いました。それからしばらくして、彼を探してみると前日に少し立ち寄った海辺にいました。彼は突っ立っていた。彼のまわりにはカモメが飛んでいた。あれはカモメなのだろうか、彼は海を見ていて。そして突然、鳥はうるさいと言った。海もうるさいと言った。能登の海は濃い青で綺麗ではいたが荒れていた。助けてくれと彼は言った。力になるよと私は言った。孤独という言葉を彼は多く使った。恐怖という言葉も、偽り、という言葉も。私が驚いたことはね、彼がある日、奈々江さんを殴ったという事件に関してで、二度殴っても三度殴っても反抗もせず落ち着きを貫き通す奈々江さんの態度が耐えられないと言うのです。君、康之と奈々江さんの間には何かあったのかい。私自身、彼に幾度か尋ねてみたのだが一向に要領を得ない。ただ奈々江さんが誠実ではない、と言う。俺のまわりの人間がことごとく誠実ではない、と言う。君の兄さんが言う誠実という言葉はどういう意味だろうか。君の兄さんは細かい。君の兄さんは答えを求めすぎている。そういった彼の性質が、彼自身を苦しめている、ような、そんなことを、感じた。日が沈んできたので、海から帰ろうと二人で自転車を漕いでいると、若い女性とすれ違いました。私たちと同じように旅行に来て一人で海を眺めているようでした。こんな田舎で若い女性が一人で海を眺めているなんてなんだかそそられるなと私は言った。すると彼は行けよと言うのです。バカ言うなよ、行かないよと告げると何故だと不思議そうな顔をし、いいなと思ったのだろう、興味がわいたのだろう、好きだと思ったのだろう、君は恋人もいないじゃないか、行けばいいじゃないか、と言う。俺は好きだなんて言ってない、ちょっといいなと思っただけだ、声をかけるまでじゃない、と言った時、彼の目の色が変わった、君はそんな不誠実な態度で女性に接するのかい、好きかそうじゃないか、ちょっといいだなんて中間地点などないよ、好きなら行けよ、行きたくないならそれは好きじゃないんだと。それならば好きでないで結構と告げると何も言わずに自転車をぐんぐん走らせていきました。夜、三日目の夜、康之は私のことを羨ましいと言いました。私にはその意味がわからなかった。彼に言わせるならば、私にも、利益も不利益も考えない、ただ、ありのままの自然な顔つきをしていることがあるらしいのです。兄さんが言う羨ましいというのはそういった時の私だと言うのです。私自身、君の兄さんが羨む素質というのを十分に持っているとは思えない。だけども嫌なことがあっても辛いことがあっても一晩寝れば忘れてしまうような私の性質を、今の兄さんは羨ましいと言っているのかもしれない。康之の中には矛盾がいくつも存在している。私が感じる以上に、彼の中に、数え切れない、幾多もの矛盾が存在しているのではないかと推測する。三泊お世話になった民家の夫婦が、彼らの息子の結婚式の時の写真を見せてきた。結婚式を挙げるのに、何百万と使ったという話であった。康之は何も言わなかった。うつ向いていた。帰りの電車内で、ポツリ、ポツリと話してくれました。君の兄さんはやはり結婚のことについて嬉々と話してくる夫婦に耐えられなかったのだそうです。結婚をしていない私には到底わからないことかもしれませんでした。結婚前の女と結婚後の女はまるっきり違うと話してくれました。その後、電車の乗り換えの際に降りた駅では偶然、大きなお祭りが開かれていました。車輪付きのとてつもなく大きな山車が街中を闊歩する祭りでした。康之は山車についてある大きな車輪に見とれていました。その方向転換する際に、テコの原理を駆使して持ち上げられる大きな車輪から目が離せないようでありました。私にはこの三泊四日の旅行の中で、この祭りの時の康之が一番楽しそうに見えました。えーい、さーあ、えーい、さーあ、と掛け声が響き渡り、人々が大量に密集しているいかにも康之が嫌いそうな空間だと思いましたが、意外にもそこで行われている事態に熱中しているといった印象です。私は昨夜の話を思い出していました。君の兄さんも自然のまま、ありのままの姿になれないなんてことはないのだと私は考えています。君の兄さんは君の話を私にしてこなかった。これがどういった意味なのか私にはわかりません。私にはこれからのことが康之次第といったわけではなく、康之を取り巻く環境次第にあるのだと考えます。しかし、いくら親友だとしても、毎日会うといったわけにはいきません。智春君、君と康之の間にどういった問題があるのか、奈々江さんと康之の間にどういった問題があるのか、私は深入りしようとも思いません、してはならないとすら考えています。だけどもどうか、力になってやってくれ。君が思う以上に誠実な態度で、接してやってくれ。康之の中に立ち篭める霧を、払ってやってくれ。これが私からのお願いです。



智春から奈々江へのビデオレター


奈々江さん、お久しぶりです、元気?びっくりしました?ビデオレターなんてもらったことないでしょ?俺ももらったこともなければ送ったこともなかったんだけど、だがしかし原沢さんが兄さんとの旅行先での出来事をビデオレターにして送ってきたってのがありましてね、なんでビデオレターって最初はなったんだけど、ビデオレターなんてサンマのからくりテレビの上京した若者へ田舎の家族が揃って手振って、元気でいるか?て聞いてるイメージしかないじゃない、でも原沢さんの見ているうちに、あっ、ビデオレターありかもね、って思いはじめていまして、じゃ、ま、この流れに便乗しまして、ビデオレターでも送ってみましょうかってことになってきたわけです。いや、ま、自分としましてはね、兄さんがああいう風になったのは僕が悪いんじゃないかって責任を感じていて、いや、ま、でも、責任を感じているからどうこうって話じゃないんだけど、原沢さんから誠実に接してみたらどうだいなんて類のこと言われて考えちゃって、考えてしまいましてね。誠実に接してみろって言われて、はいそうですね誠実に接してみますなんて言えないわけですよね、そもそものところで誠実に接するってなんだよってのがあって、正直に話すとね、実際奈々江さんは薄々感づいているかなと思うんだけど、兄さんは自分と奈々江さんの関係を疑っていますよ。あ、俺、こういうことを細かく正直に話していくのが兄さんにとってもしかしたら一番いいんじゃないかって気がしてきていて、嘘をつくっていうのは事実を捻じ曲げるっていうのと思ったことだとか感じたことを言わないっていうのがある気がしていて、自分としてはね、事実を捻じ曲げなきゃ嘘ついたことにならないって今まで思っていたんだけど考えが変わってきていて、和歌山のさ、旅行でさ、あったじゃない、白浜にお母さんと兄さんと奈々江さんと僕が行った時。あの時ですね、和歌山市内に俺と奈々江さんと二人でお城見に行って、台風来ちゃって白浜帰れなくてやっべーって時あったじゃないですか。あの時、そしてホテル泊まったじゃないですか。あの時ね、いや、あれね、あれ、あの時のことなんだけど、兄さんに頼まれたことなんだよね。もちろん台風は予期していなかったんだけど、兄さんに頼まれたんだよね。兄さんはその時から奈々江さんは俺に気があるって疑っていて、俺に、頼んできたんだよね。奈々江さんと、二人で一泊してきて欲しいってさ、頼んできたんだよね。ごめん、気を悪くしたらごめんね、でも僕としてはこういうことをさ、もう全部言っちゃおうってなってて、なってまして、もう言わないより言ったほうがいいだろうってなってまして、ごめん、いや、流石に自分もその時断ったんですよ、できないって、いや無理だって、だって、ねえ、それはちょっとひどいっていうか侮辱してるよね、なんか、ダメよって思って、断ったんですよ、僕はね。けどああいう性格だからさ、自分の思い通りにならないとすぐ不機嫌になるじゃん、そしたら面倒じゃん。面倒じゃんっていうか、怖いんだよね、正直言うと、怖いの。俺、兄さんが。いや嫌いとかじゃないんだけど、なんか、突っかかってくるところがあって、昔から、僕に突っかかってくるところがあって、いやだからね、話をするってことでさ、奈々江さんと兄さんのことについて、話を、二人で、そういうつもりだったんですけどね、結果的に、試すみたいになってしまいまして、まず、まずなんですけれども、僕はずっとこのことがもやもやしていまして、奈々江さんを試すみたいな夜になってしまったことを、とても、申し訳ない気持ちでいて、でも、いや、このことは、まずなんですけれども、謝りたいと思っていまして、ごめんなさい。いくら頼まれたこととは言え、ごめんなさい。自分、このことについてずっと謝りたかった。なんだか奈々江さんを騙しているみたいで。でも全然全く、騙せている気はしなかったのだけども。あの時、正直どんな気持ちでいた?あの夜。あの地方都市にならどこにでもあるようなあのホテルの一室で、どんなことを考えていました?俺は正直、俺はあの時正直耐えられませんでしたよ。冷静でいられなかったよ。いや、冷静でいよういようと、落ち着こう落ち着こうとしすぎて全く落ち着ける気配がなくて、奈々江さん、多分察していたと思うんだけど、俺、ホテルの冷蔵庫開けたり閉めたりしまくってて、机の引き出しとかもめっちゃいじってて、あれはなんか飲みたいとかなんか探してるとか全然なくて、ホテルに泊まった際に起こる僕の習性でもなんでもなくて、ただただね、ただただ、正直、俺ね、あの時、兄さんとの件がなければね、だから、例えば、偶然、俺と奈々江さんが二人でどこか行くってなって、偶然、同じ部屋に泊まることになって、てなったらね、偶然ね、偶然そういうことになっていたらね、俺、偶然そういうことになっていたら多分ね、奈々江さんに触ってたよ。兄さんとの話がなければね、僕の頭に兄さんが浮かばなければね、触っていたと思います。あの時、奈々江さんに。当たり前ですよ。それは、当たり前に起こる感情だと自分は思っていて、もはや開き直っていて、というか、俺、奈々江さんも悪いと思う。え、ごめん、ごめんね、正直言って、あ、いや、正直思ったこと言うと、え、だって普通ついてきます?義理の弟と二人きりで観光してきたらなんて夫に言われて、きます?普通?お母さんめっちゃいやな顔してたじゃないですか、そこくる時点で、ちょっとあれだな、奈々江さん、あれですよ、なんか、あれだと思いますよ、え、それでまた部屋別で取れば良いのに、高くつくからって一緒の部屋取ります?普通?普通取ります?ベッドは別だったからよかったけども、いや、よくないよくない、全然よくない、いや、あれですよ、奈々江さん、あれですよ、ちょっと、あれなんじゃないかな、って正直内心思っていて、思っていまして、いや、あれだよ、え、だって僕ら大学の同じゼミに通っていたわけだし、まあその、深くはなくとも、まあその、普通意識するよね、意識しちゃうよね、それが普通じゃないの、って思っていて、え、意識しないことなんてできる、逆に、って思っていて、え、なんで奈々江さんそんな落ち着いてられるのって思っていて、いや、その、あの夜のこと、俺、え、俺正直全然わかんなくて、奈々江さんがどんな気持ちでいるのか、正直全然わかんなくて、もしかしてなんだけど、正直ごめんね、もう全部ぶっちゃけちゃうと、もしかしてあの時奈々江さん、僕のこと誘ってたんじゃないかって僕は疑っていて、ごめんごめんね、こういうこと絶対言っちゃダメなんだけど、こういうこと言うと今度会う時気まずくなるじゃないって自分わかっているんだけど、正直に全部全部話すってこういうことだと思っていて、あの時正直奈々江さん僕のこと誘ってました?正直内心、俺あの時ものすごく葛藤していまして、その葛藤っていうのはつまり、つまりですよ、もし、いや、例えば、いや、つまりあの時奈々江さんが僕を誘っていたんだとすれば、だってそう思ったのですもの、あの夜、あの大雨の音を聞きながら、あなた、言ったんですもの、こんな雨風が吹き荒れる日好きだって、なんか全部全部流してくれて、全部リセットしてくれそうな気がする、って類のこと言ったんだもの、え、それって、俺にリセットボタン押してくれってこと?って、俺が、奈々江さんを、こう、あれして、奈々江さん周りの、関係だとか煩わしいものだとか、全部一旦なしにして、てこと?って、だって変なこと言うから、死ぬならこんな雨風が吹き荒れた海に飛び込んで死にたいのよねとか、覚悟はいつだってできてるの、とか、変なこと言うから、男っていざって時に覚悟がないのねとか変なこと言うから、え、覚悟って海に飛び込む覚悟のこと?それとも俺に触られる覚悟のこと?って、ええって、だとしたら僕、誘われてないって、思っちゃうじゃない、いやでもでもでもですよ、僕としては兄さんと奈々江さんの仲を少しでも良い方向にしようという名目でこの旅行に挑んでるわけだから、そんなことしたら兄さん裏切ってしまうわけだから、だからつまり僕はあの時とてつもなく葛藤していて、その葛藤ってのがつまり、兄さんを裏切ってなるものかって、俺は心から兄さんの幸せを望んでいるんだって、絶対奈々江さんには触らないぞっていう一方向からのエネルギーと、だけども奈々江さんが今、今自分を誘っているのだとしたら、誘っているのだとしたらですよ、実際奈々江さんが本当のところどう思っていたのか関係なくですよ、誘っていたのだとしたら、今僕が奈々江さんに触らないのはとてつもなくチキンなことではないかと、なんだこいつ度胸ねえなって思われはしまいかと、誘ってきていたのだとしたらですよ、あくまでも誘ってきていなければ今の話は全く素っ頓狂な、自分の空回りの葛藤ということになるわけだけども、奈々江さんにどう見られているのかってエネルギーと兄の信頼を裏切ってはならないというエネルギーと、二方向からのエネルギーが僕の中でぶつかっていました。これを、僕はあの夜の葛藤と呼んでいます。さすれば、自分自身の考えはどうなのよ、と、あなた人の目しか気にしてないじゃないのよ、と、僕自身の考えからすれば当然触りたかった。当然、当然触ろうと思った。何度も思った。キスだけでもとも思った。キスだけなら兄さん、許してくれるかな、とも思った。いや、許してくれるわけがないだろうとも思った。とにかく僕は思った。奈々江さん、めちゃくちゃいい匂いするんだもの。そんないい匂いさせてたら、そりゃあ、ねえ、ダメでしょうって。とにかく自分は奈々江さんに触るべきか否か。多数決で考えたらば、奈々江さん側からのエネルギーと僕の触りたいという純なる欲望からのエネルギー、それに対するのが兄さんからのエネルギー、2対1であるよね。多数決だけで考えるならば僕は奈々江さんに触っていました。だけれど血の繋がった、何年も生活を共にしてきた兄の信頼の力は凄まじかった、その信頼を裏切ることができなかった。裏切ることはできなかったのだけれど、実行の上では確かに裏切ってはいないのですが、心の中ではいかにも不純なことを考え尽くしている、奈々江さん、これは裏切りでしょうか?僕は行動に移さなかった、思いはしたけど実行はしなかった。これだけでも大したもんだと褒めてもらいたいよとその時の自分は思ったものですよ。いや、私は兄さんを裏切ったのです。白状します。僕はですね、あの夜のことを兄さんに聞かれた時ですね、僕はどこかで兄さんに敵意を抱いていました。兄さんのことを軽蔑していました。自分はどこかで、実際上は何もなかった奈々江さんとの一夜を、兄さんの知らない、奈々江さんと俺だけが共有している一夜を、兄さんは知らないが僕は知っているという点において、自分が兄さんより優位に立てていることが、自分の言葉や行動が兄さんの感情を操れるのだということが、初めての経験であったわけで、どこかで調子に乗っていたというわけで、奈々江さん、自分はあの夜奈々江さんを見て学んだことがあり、それは奈々江さんの押しても引いても芯がつかめない飄々としたところを不愉快にも思い愉快にも思っている自分がいることに気付いたわけで、そのような接し方は私の兄への接し方にある変化をもたらしてしまったわけで、つまり私はあの夜のことを兄に聞かれた時に、そんなものはなんでもないことです、話すのも馬鹿馬鹿しいことなんですから、しかし流石に僕としてもこのことを自分なりに整理して言葉を選んで話してみたいものだから、そうせかせか焦らずに、もっとゆっくりと気持ちの整理ができた時に話しましょうと兄がすぐにでも聞きたがっている重大事項を、兄さんを苦しめているのは奈々江さんなのではなく、奈々江さんを苦しめているのが兄さんなのだと、僕は兄さんに敵意を抱いていた、兄さんを苦しめようとした、自分の優位なのをいいことに、私は兄さんを焦らした、答えを遅らせた、そしていざ答えねばならなくなった時、兄さんは自分の言うことを信じてくれなくなった。僕は阿呆です。僕は大馬鹿ものです。あの時すぐにでも誠実に答えていれば良かった。何もなかったと。あの夜、私たちは何もなかったんだと。ただただ食事をして、ただただお風呂に入って、ただただただただそれぞれのベッドに入り、修学旅行の夜みたいに、修学旅行のどちらが先に寝付くかソワソワしながらも旅の疲れとともに眠気を感じている夜のように、ポツポツと、話をしただけなんだと。私の葛藤なんてなかったのだと、あってはならなかったのだと、兄のためを思うなら至極当然のことですよと。奈々江さん、自分は奈々江さんに触ってはいけない人間なのです。それは兄のためでもあり、あなたのためでもあり、自分のためでもあるのです。私があなたに触れるということ、それは兄に関わる全ての人にとってためにならないのです。奈々江さん、僕たちの間には何もなかったのです、自分と奈々江さんの間には何にも起こらなかった、何も起こらなかったじゃないですか、だけども自分の中では、奈々江さん、自分の心の中ではこのような、絶対に口に出してはいけないことたちがこのように、たくさん、あって、これを言わなかったことを誠実じゃないなんて言われたなら、今の世の中に誠実な人間なんてものは一人もいない気がしていて、そもそも生きていくのが不可能なのではないかって気がしていて、自分は正直、本当の本当のところを言うと、奈々江さんと兄さんは正直離れたほうがいいんじゃないかと思ってる。だけれどこれは自分が外からあーだこーだ言っても仕方のないことだし、奈々江さんと兄さんが結局は決めることなんだけれども、自分は正直、正直本音をぶっちゃけてしまうと、兄さんのことを心配するとともに、兄さんのことを心配する以上に、あなたのことを心配している、あなたのことを気にかけている自分がいます。奈々江さん、あなたは何を思っているのですか、何を考えているんですか。自分も兄さんも、それが聞きたくてたまらないのだと思う。自分も兄さんもあなたのことが分からない。あなたの本当のところを、本当に思っていることを伝えてみたらどうだろうか。もしかしたらとてつもなく悪い方向に動いてしまうかもしれないとも思っていて、なので僕はこういう提案をすることを少しためらっていて、今のまま、今のままずっといても辛い状況は変わらないのだと思っていて、自分はこんなことをぶっちゃけてしまって、しばらく奈々江さんと会うことはできないとも思っていて、だけども今すぐ会いたいという気持ちもどこかであって、そんなあやふやなのが本当のところであって、ま、そんなところで、この動画を終わらせたいと思います。うん。最後まで聞いてくれたのだとしたらありがとう。じゃ、また。



奈々江から康之へのビデオレター


ビデオレターを、送ろうと思います。智春くんがね、送ってきたの。本当の本当を共有しようって。いつもとは違った形で、言葉を贈るのは、なんだかいいことなのかもしれない。何を話せばいいのだろう。うん。わたしのこと、分からない?そんなこと言われても、なあ。どうすればいいのだろう。ねえ、どうして欲しいの?わたしのこと分からない?わたしの何が分からないの?考えていること?性格?好きな人?好きなもの?分からない。わたしの何が分からないのか、わたしには分からない。いちいち質問してくれたらいいのにって思うのはわたしだけ?分からないこと全部。わたしが答えられることなら全部。聞いてくれたらわたしは答えますよ。何を聞けばいいのか分からない?何を聞けばわたしを分かることができるのか分からない?聞くことなんてできない?夫婦の間でそんなことを質問しあうのは馬鹿げている?自然と分かりあっていくのが夫婦だなんて思ってる?それじゃあ永久に分かりあうことなんてできない。あなたが求めているのは本当の本当のことだなんて智春くんが言ってたのね。本当の本当のことだなんて本当に必要?本当の本当のことだなんて本当のところ誰も本当には分からないんじゃないかな。自分の本当の本当のところでさえ本当には分からないでいるのに、他人の本当の本当のところだなんてさらに分からないに決まっているでしょ。決まっているのかな、そんなことないのかな。他人だから分かることもあるのかな。あなたが本当の本当のところが本当に知りたいのなら、本当の気持ちを、わたしの本当の本当のところをできるだけ、可能な限り、本当の本当に近づく努力ぐらいはしてみたっていいのかもしれない。でもそんなこと聞いてあなた耐えられる?あなた満足?あなたは大丈夫?わたしの本当の本当のことを聞いてあなた、あなたでいられる?いや、ただただ、ただただ大丈夫なのかな、と思って、ただただ、ただただそういうような不安があって、でも本当に、本当に大丈夫じゃないなら、耐えられないと思うのなら、ここで、この動画を見ることをやめて。今すぐ、今すぐ停止ボタンを押して。お願いします。


間。


今、停止した?今、停止せずに見ている?今、今喋っているわたしを見ているのはこの動画を見ることに決めたあなた。この動画を見ることをやめたあなたは、もうここにはいないってことね。この動画を見ているあなたは本当の本当に近づく覚悟があるってことね。本当の本当に近づく覚悟?何それ笑っちゃう。覚悟なんてたいそれたものは必要ないよね。必要なのは明確な事実じゃない。あやふやでなく、ぼやけていない明確な事実。知りたいのはあの夜のことでしょう。智春くんと過ごした一夜のことでしょう。いや、違うかな、わたしが智春くんを好きなんじゃないかってことでしょう。そのことが結局のところ知りたいんでしょう。本当の本当のことを言うね。わたし、智春くんを異性として意識したことは一度もないの。好きだ嫌いだなんて思ったことなんてないの。ただただ楽しい人だなあってことは初めて会った時から思ってる。良い人なんだなあってことも思ってる。だけれどそれとこれとは話が別じゃない。ただただ、ただただ、楽しい人だし良い人だなあと思ってる。それだけ。それだけのことなのにあなたは何を苦しんでいるの?なんでわたしが智春くんを好きだなんて思えるの?智春くんと話している時のわたしが楽しそうだから?あなたと二人でいる時に会話が途切れるから?楽しそうじゃないから?わたしが、結婚して、子供を産んで、家庭を築いて、幸せなはずなのに、幸せであるべきはずなのに、幸せそうにみえない?わたし、あなたと結婚してよかったと思ってる。陽菜が生まれて良かったと思ってる。結婚する前のわたしと結婚してからのわたし、何か変わった?あなたが不機嫌に思うようなことした?あなたのしたいように、あなたの思うように、わたし、努めてきたと思うのだけれども。あなたの不満だとか悪口だとか一度も漏らしたことないのだけれど。分からない。あなたがわたしにどうして欲しいのかがわたしには分からない。わたし、なんにも怒ってないよ。わたし、なんにも不満に思ってないよ。もしかして、怖い?わたしのこと、怖い?わたし、分からないの。どうしてあなたがわたしを殴ったのか。何度も考えてるんだけどわたし、分からない。あなたが、仕事から帰ってきて、ご飯出来てるからって用意して、生姜焼き、生姜焼きにキャベツの千切りに白いご飯にお味噌汁用意して、あなたが脱ぎ散らかした靴下を洗濯カゴにしまって、食べたらお風呂はいっちゃってねって言って、あなたがテレビのリモコンをポチポチしていて、陽菜は?って聞くから陽菜はもう寝ちゃったって言って、あったかいうちに食べた方が美味しいよって言ったら、冷めてしまうと美味しくないのかって言われて、何それって思ってたら殴られた。殴られた、って思って、殴りたいのかなと思って、チラッとあなたを見たらもう一度殴られた。わたしは、多分言葉を探していて、あなたの、役に立つ言葉、あなたの、ためになる言葉を探していて、あなたが、して欲しいことはなんだろうと考えていたのだけれど何も浮かばずに、このまま、黙っていたらもう一度殴られるだろうなと思っていたら案の定、もう一度、殴られた。わたしは、床で、あなたは、生姜焼きを食べていて、冷蔵庫からはずれたマグネットを探しながら生姜焼き美味しい?って聞いたら、うん、って言ってて、うん、って言葉が聞けてわたしは心底嬉しくて、だけどわたしはなんで殴られたのだろう?わたし、殴られるだけのことをしたかな?わたし、だけどあなたを憎んでも恨んでもいなくて、殴られたってのは、殴られるだけの理由があるのかもしれなくて、その理由が、智春くんとわたしとの関係によるものだとしたら、逆かもしれない。智春くんとわたしとの関係によらないのだとしたら、わたしにはどうすればいいのか分からない。わたしと智春くんは何もないのだから。智春くんから聞いたでしょ。あの夜、わたしと智春くんはなんにもなかったのだから。本当に。本当に何もなかったのだから。本当に?


間。


わたしね。わたし、何もなかったの。それは確かなことなの。だけれど本当の本当のことを話すのだとしたらね、本当の本当に近づくのだとしたらね、わたし。わたしね。あの夜、智春くんが求めてきたのなら、わたしね、あの夜、智春くんが求めてきたのならわたし智春くんとセックスしていたかもしれない。智春くんとセックスしたかったってのじゃなくてね、智春くんのことが好きだってのでもなくてね、ただただ、智春くんが求めてきたのなら、ただただ、わたしはそういうことをするんだろうとあの時思っていて、だけれどそういうことにはならなくて、わたしは、だけれどわたしは、あの時智春くんと寝たほうがいいのかもしれないとどこかで思っていて、何度も繰り返すのだけれども寝たいってのじゃなくって寝たほうがいいのかもしれないとどこかで思っていて、だけれども智春くんはわたしに触らなかった。だからわたしもそれに応じた。結局のところわたしたちの間には何も起こらなかった。ただただわたしの中には智春くんが求めてきたのならそれに応じようという気がどこかであって、わたしはそれを認めようと思っていて、だけれどそれはわたしが悪いの?わたし、智春くんが求めるなら応じようと思っていた、思ってしまっていた、考えてしまっていた、考えてしまっていたことなんてどうしろっていうの?考えるなっていうの?だけれど結局は何もなかったのだからそれでいいんじゃないの?それじゃあダメなの?分からない。あなたが頼んだんでしょう。知ってたよ。はじめから分かってたよ。でもなんでそんなことをするのかは分からなかったよ。ねえなんで?わたしね、なんでそんなことをするんだろうってちょっとは考えてみたんだけどね、わたしなんかには全然分かりっこないんだと思うのだけれどね、わたしね、あなたが、ごめんね、分からないんだけど、なんだかなんでかそんなことを考えてしまっているわたしがいて、わたしね、あなたがね、あなたが、うん、ダメだ、もうやめよう、もうダメだ。こんなことして何になるのかわたしには分からない。こんなぶっちゃけトークしても何も、


間。


家の空気をさ、悪くするのはさ、やめてくれない?せめて陽菜の前だけでもさ、取り繕ってくれない?怖がってるよ、あなたのこと。幸せなさ、ふりでいいんだからさ、幸せなさ、家族を演じてるでしょ、みんな、みんなみんな。わたしたちが抱えてる問題なんて、本当はきっと些細なことで、問題なんて言っていいものなのかどうかさえ、怪しまれるものかもしれなくて、本当はみんな、みんなどの家族も、いろいろあるのかもしれなくて、いろいろあるんだけど、幸せを演じているのかもしれなくて、いろいろなかったとしても、幸せを演じているのかもしれなくて、幸せを演じなきゃ、幸せなんて感じられないのかもしれなくて、幸せなんて、求めて手に入るものでもないのかもしれなくて、幸せの、ふりをしているから幸せだなんて思えるのかもしれなくて、幸せのふりをしているのがいつの間にかふりじゃなくなった時、それってだいぶ幸せじゃないと思っていて、本当の本当のことだなんて本当に必要?幸せなんて求めれば求めるほど遠のいていく気がしている。なんとなく、なんとなく感じるものじゃないの?幸せって。どうなんだろう?


間。


話がずれた。幸せの話なんてしてなかったよね。あなたが、わたしを分からないように、わたしもあなたが分からない。それでいいんじゃないのかな、それでどこか不都合あるかな、どこにも不都合なんてないよね、何故ならばわたしは智春くんのことを好きでもなんでもないのだから。あなたと、陽菜と、三人で、なんとなくの、幸せを感じられればいいのだから。逃げてる。って思う?何から?分からない。隠してる、隠してるよ。たくさん、いっぱい隠したいことが山ほどあって、むしろ隠したいことしかわたしにないのかもしれなくて、理由なんてない、理由なんてないのに、あああ、言いたくない。言いたくない言いたくない言いたくない。のかな?


間。


隠してること、あるでしょ?あなたも、人に知られたらまずいって思ってること、あるでしょ?ない?わたししか知らないこと、わたし以外の他の人が知ってはならないこと、たくさん。あなたがわたしだったら良かったのに。なんてね。


間。


どうしようもないことってね、あるんだと思っているのね、わたし。


間。


わたし?


間。


わたし、柳の木の下で、夜、若い男の人たちが、ぶつかり合っていて、その音が、響いていて、多分、月が照っていて、川に雫が落ちて、小さな波ができていく。若い人たちのぶつかり合いは、伝統なのか、稽古事なのか、ともかく皆ぶつかり合うことに夢中で、そのぶつかり合いの振動で、夜霧によって溜まった水滴が葉からこぼれ落ちて、川に、こぼれ落ちて、ポツンと、落ちた重みで水が跳ねて、跳ねたところから、波が丸く大きく外に向かって広がって、だけどもその光景を見ているのはあなたのはずなのに、あなたは若い男の人たちのぶつかり合いを同時に見ている。そんな夢の話を、あなたが、する夢の話、好きだな、とても、とても、好きだなと思っていて、ね、


間。


わたし、智春くんのこと、好きなのかもしれない。もしかしたら、


間。


好きじゃないかもしれない。もしかすると。


間。


あなたと別れたくないのかもしれない、だけどももしかしたら。別れたいのかもしれない、


間。


分かる?


間。


分からない?


間。


気に入らない?わたし、殴りたくなる?わたし、幸せに見えない?喋りたくない?分からない?何が?悪いことした?わたし、なんか悪いことしたかな?わたし、何も悪いことなんてしてなくないかな?わたし、変わらなければいけない?変わらなくてもいいの?どうすればいいのか、教えて、どうすればいいの?あなたが気にいるように、あなたが思うように、していいのに、したらいいのに、なんで?何が不満なの?智春君のことなんて好きでもなんでもないよ?分からない?どうでもよくない?本当の本当のことなんてどうでもよくない?生きていけたらよくない?生きていけるのだからよくない?面倒臭くない?全部、全部全部どうでもよくない?諦めるしかなくない?全部、全部全部諦めるしかなくないかな?分からないのだから、考えても、喋りあっても、触りあっても、分からないことが、多分あるのかもしれなくて、多分とか、かもしれないとか、わたし、かもしれないでしか、分からないのがわたしなのかもしれなくて、そう、思っていてね。分かる?かもしれないことしか、わたし、世の中にはないのかもしれないと思っていて、だけどあなたは、反対に、そうじゃないのかもしれないと思っているのかもしれなくて、多分、そういう違いとかが、あるのかもしれなくて、だけれどもね、それが分かったところでどうすればいいの?諦めるしかなくない?努力すればいいの?何の?認め合うしかなくない?認め合う?何を?あなたを、あなたを?認めていない?わたしが?認めていないって思う?あなたは?認めている?認めている?って何?分からない、分かる?何を言ってるの?って思う?わたしも分からない、分かる必要なんてある?あるに決まっているじゃない。あるに決まっているのかな?そもそものところ、そもそものところでわたしは、


間。


何を言ってるのだろう。何を言ってるのだろうね、分からなくなっちゃったね。こんなの見せられないな。だけどもこれを見て、あなたは何を思うのだろう。これを聞いて、あなたは何を感じるのだろう。嫌いになった?軽蔑する?分かった?わたしのこと。分かるわけないか、だけどももしかしたら、もしかしたら、なんて思っていて、 分かる?違う、分からなくていいの。分からなくていいってことが、もしかしたら、もしかしたら、あるのかもしれなくて、分かんないんだけど。ま、いいか。



康之から原沢へのビデオレター


先日は、旅行に誘ってくれて、ありがとう。
旅はいい。
あの時、俺は心からそう思った。
人間は旅をする必要がなくなった。
だけど、こうして娯楽のように、私たちは旅に出る。
山はいい。
海はいい。
鳥がいい。
食べ物が美味しいと。
さて、奈々江から、ビデオレターが届いた。
俺を、苦しめているものはなんだ。
それが、解決できない、理由はなんだ。
眠れないんだ。
嫌なことも辛いことも、一晩寝れば忘れられると君は言った。
俺には、その才能がないのだろうか。
君が、羨ましいよ。
君のように、生きられたら、俺とてこんなにも苦しまずに済んだであろうさ。
霧が、頭の中を覆っている。
俺は、輪郭をつくりすぎた。
俺が道を歩いている。すると十字路にぶつかる。俺は左に行きたいと思う。なのに身体は右に曲がってしまう。おい、左だ、左に行くんだと身体に叫ぶも、右へ曲がってしまった身体が歩いていく。おい、左だ、左に行くのだと叫んだ声を身体が聞いてくれたのか、次の十字路で左に曲がる。俺は安堵する。安堵するもその光景を俯瞰して見ている俺は俺を、俺の身体を、俺の頭を、馬鹿だなと思っている。気づいている。俺は行きたい方向へ進めていない。伝えてあげるべきだのに。俯瞰して見ている俺は伝えない。面倒なのか、諦めているのか、面白いと思っているのか、蔑んでいるのか。
時計の針が、うるさい。
俺は、出口をつくらなかった。
俺の身体の中で、時間を刻んでいる。
それは、一本の線のようであり、大きな立方体の箱のようであり、そこに、水が、溜まっている。
ぽちゃん、と、水滴が落ちる。
波が、たつ。
丸い、円が、波が、大きく、丸く、広がっていく。
生まれた波は、閉ざされた空間に生まれた小さな波は、大きくなった後、どこへ行くのか。
ぽちゃん、と、聞こえるか聞こえないかの音が、ぽちゃん、と、その空間では響く、ぽちゃん、ぽちゃん、ぽちゃん、ぽちゃん。
智春のことを、好きかもしれないと、奈々江は言った。
好きじゃないかもしれないと、奈々江は言った。
このことを聞いて、俺はどうすればいい、何を感じればいい、何をすればいい、
君には聞こえるか。
この音が、この波が、大きくなっていく、この波が、だけども消えていく、この波が、時計の針に、かき消されていく。
うるさい。
だけのことである。
眠れない。
だけのことである。
奈々江の寝顔を見る。
それだけのことである。
陽菜の寝顔を。
つくられた、つくられたもので、しかない。
そう、思わないか。
遠く、遠く離れていく。
眠れないんだ。
距離なんてない、距離なんてないのが夫婦だと思っていた。
言葉なんていらない、そういうものが。
はじめからそうではなかっただろう。
自然と笑って、自然と喧嘩して、自然と、自然と生まれる感情に、自然と生まれる空気に、身を、委ねることができた。
煮物の味付けが成功したと抱き合って、陽菜が変な寝方をすると笑いあって、声が、色を、部屋に、色が、付いていた。
色が溶け合うという現象が、喜ばしくもあり、恐ろしくもあった。
溶け合う、混じり合う、淀む、滲む、霞む、濁る。
笑う前に考えてしまう。
喋る前に考えてしまう。
寝る前に、食べる前に、怒る前に、殴る前に、考えてしまう。
今、笑ったほうがいいのか、笑わないほうがいいのか、笑うならばどのような笑い方がいいのか、少し大げさに身体全体を揺らして笑うべきか、アハハと微笑む程度のほうが良いのか、笑うとした時に相手はどう思うだろうか、明るくて楽しい人だなと見てくれるだろうか、場違いなところで笑う人だなと思われるだろうか、さすれば笑わないほうがいいのだろうか、根本的に今俺は笑いたいと思っているのだろうか、今この時は笑うに値する事態なのだろうか、しかし自然と笑えていない時点で、笑うべき事態ではないのではないだろうか、選択することはできる、笑うか、笑わないか、どのように笑うか、笑わないか、微笑むか、腹を抱えて笑うか、声をたてずに笑うか、膝を叩いて笑うか、それとも、笑わないか。
考えている時点で、笑うタイミングを失う。
あるいは。
お前は笑い方が上手い。
笑わせ方も上手い。
お前はこの技術を駆使して生きていくのだろう。
俺にはこの技術がない。
俺にはそんな技術など必要ない。
俺はお前を軽蔑する。
笑い、笑われる才能を軽蔑する。
その場しのぎの、場をつなげるためだけの、軽はずみな、行為に、技術を、軽蔑する。
うるさい。
あの時計を買ったのは、俺か、君か。
しかし一体時計というのはどうして時を刻む際に音を立てる必要があったのだろうか。
その音で何時何分何秒と分かるのならば話は別だ、だけども、カチ、カチっ、カチ、カチっ、なんて針が動く音を聞いていても何の役にも立たないではないか、むしろ耳障りだ、これを聞いて安堵を得られる人間などいるのか、カチ、カチっ、カチ、カチっ、何故だ、何故カチっとなる音が、一定の動きでしかない針の音が、一つ一つ別の音に聞こえるのだ、せめて同じ音を奏でてくれよ、カチ、カチっ、と、カチ、カッチ、っと、その差異が、その些細な差異が、俺の身体に、響く。
君の家はどうだ、デジタル時計か、針時計か、まさか鳩時計なんてことないよな。
ははは。
どうだ、俺は笑えていただろうか。
あああ、笑えていない笑えていない。
こんな笑いは何の役にも立たない、こんな笑いでは誰をあやすこともできない。
あやす。
君は人をあやしたことがあるか。
あやすという行為ほど馬鹿げているものはないと思わないか。
子供は声をあげる。
子供は笑う。
つまらないことでいつまでも笑う。
子供は泣く。
嫌なことがあれば泣く。
怖いことがあれば泣く。
泣く。
怖いことがなくても泣く。
声をあげて泣く。
しがみついて泣く。
座り込んで、ジタバタして、エネルギーを、まき散らして、その目から、ボロボロと、ボトボトと、垂れる、水が、手を濡らす、手の甲を濡らす、手の甲を伝い、床に落ちる、床に、染み入る。
あごに垂れ、首を伝い、身体を濡らす。
泣けよ。
おい、ほら、泣けよ、泣けよ、泣いてくれよ、俺があやしてやるよ、思う存分泣けよ、わめき散らしてみろよ、おいおいと、おいおいととわめき散らしてギャーギャーと、ポロポロと、泣けよ、泣いておくれよ、鼻水を垂らして、身体をビクつかせて、何もかも忘れられるような、何もかも、何もかも、どうでも良くさせてくれるような涙を、くれよ、俺に、その涙を、垂らしてくれよ、
声が聞きたいんだ。
どんな言葉でもいい、
どんな音でもいい、
俺を、忘れさせてくれるような、俺を、俺でなくさせてくれるような、声を、聞かせておくれ。
君はまず、俺が変わるべきだと言った。
俺が変わらねば、何も変わらないと言った。
ああ、まあ待てよ、ああ、まあ分かってる、うるさい、うん、分かってる、分かってるよ、一歩、地面に足が動く時、一歩、重心が前に移動する、重心が前に移動するから足が前に出るのか、足が前に出るから重心が移動するのか、目的が、ある、から、俺は足を前に動かそうと思うのか、身体が勝手に前に、動く、から、俺には目的があると思うのか、そんなことを考えるから、そんなことを考えるから俺は歩き方が分からなくなる。そもそも俺には目的がない、すると何故歩いているんだという思いに捉われる、なあ、分かってる、分かってるんだぜ、俺にだって、俺の頭が固いだって?俺は融通が利かないだって?分かってる、分かってるんだよ、俺にだって、信じてないことないんだぜ、俺だって、君のことを、君の言うことをさ、ああ、分かってる、何もなかったんだろ、何もなかったのさ、いや、待ってくれ、うるさい、待ってくれ、それとこれとは話が別なんだよ、何かあったことが問題なんじゃない、あくまでも俺の問題だ、お前の問題じゃない、俺の問題だと言ってるだろ黙っていろ、違う、違うんだ、君を疑っていたわけではないのさ、それが俺の問題なのさ、俺の問題なのにお前の問題のように振る舞うから話がややこしくなるのさ、何かあったことが問題なんじゃない、何もなかったことが問題なのさ、何かある予感だけが問題なのさ、うるさい黙ってろ、想像しろ、感じろ、考えろ、貴様が俺だったとして、俺が、お前だったとして、考えろ、考えろよ、考えろよ?
考える必要なんてない。
むしろ考えないほうが良い。
もっと言えば考えてはいけない。
俺はお前を信用していると言った。
考えるまでもなくそれは本心であった。
信じていた。お前のことをだ、お前の正直な性格をだ、お前の世渡り上手な技術をだ、お前の俺への尊敬をだ、
裏切ったのはお前だ、俺ではなくお前だ。
お前は何故、あの夜のことをはぐらかした、その夜の出来事をすぐに話してくれなかった、それこそ本質だろう、お前の俺への態度だろう、お前の俺への態度が変わった、お前の俺を見る眼差しが変わった、変わったことが悪いのか、それを隠してもくれなくなった、それでもなお隠れているものがあった、うるさい、黙ってろ、お前に希望を抱いていた、何か変えてくれるかもしれないと思った、喋るのをやめたほうが楽になる、分かってる、裏切ったのはお前だ、
違う、そんなつもりではない、君を責めるつもりではない、君だって俺のことを考えてくれている、分かっているんだ、分かっているのさ、裏切った裏切らないじゃない、本心か本心でないかだろ、君の目の奥が見えるのさ、君の胸の中の煙が見えるのさ、 本心か本心でないかは問題ではない、その事実が残酷なのが問題だろ、
何もなかった、それでいいじゃないか、その通りだ、何も起きなかった、信用しよう、何もなかったのだから、俺が悪かった、変な提案をしてしまったことを、謝りたい、何故、何故、こんな提案をしてしまったのだろう、何故俺は、俺自身を苦しませることになる提案を、わざわざしてしまったのだろうか、それが問題だろう、それが本質だろう、そう思わないか、俺はお前を疑っていた、お前は俺を恐れていた、俺には、それが手に取るように分かった、お前の中の恐怖が、お前の中の蔑みが、お前の中の苛立ちが、なのにも関わらずお前の表面は何も変わらない、俺は俺の感じていることに疑いが芽生える、果たしてお前は人間か、お前だよ、お前のことを言っているんだよ、お前が人間か、俺が人間か、どっちだと思う、君よ、君はどっちだと思う。
考えない、考えてはいけない、考えるほど考えるほど、俺は、俺の中の波が、
俺のためにだろ、分かってる、分かってるよ、
結婚前のお前と結婚後のお前が何か変わったか、
何にも変わっていやしないんだよ、お前はな。
俺だよ、変わったのは俺だよ、正確に言うなれば俺の認識だよ、君はあの時代のままなのかもしれない、君のその瞳が羨ましい、君のその態度が羨ましい、君のその落ち着きが羨ましい、教えてくれ、どうすれば君のような落ち着きが得られるのか、どのようにすれば、俺の心に平穏が訪れるのか、霧を、晴らすことができるのか、
変わったのはお前の方なのかもしれない、
俺はお前を正直者だと言った。
その時の俺は本心でそう言った。
考えてはダメだ、分かってる、
お前が変わったんだよ、あの一夜から。
あの一夜。
月が照っていた。
テレビが点いていた。
バイクの音がうるさかった。
時が止まっているかと思った。
見えてしまうんだよ。
どんなに霞んでいても、どんなに目を閉じても耳を塞いでもさ、
カチカチカチカチうるせえな、今の俺に時間など必要ない。
すまない。
こんなことを考えていてもしょうがないじゃないか、考えるな、考えるなって言ってるだろ、俺の顔は怖いか、俺の笑顔は怖いか、どうして俺を見て泣く、俺の何を見てる、そんな目で俺を見るな、その目が、その目が、俺のためだとして、その言葉が、その言葉が、俺の望むものだとして、だけどお前が、お前の芯から生まれる、言葉が聞きたいとして、好きかもしれない、どうすればいいの、俺のため、お前のためだろう、隠さないことが正しいことか、見えてしまうんだよ、お前が喋ってること、お前の行為、お前の存在の中心にさ、俺と接する、考えるな、俺を見据える、やめろ、やめてくれ、俺とお前は、芯から、喋っていない、考えるな考えるな考えるな、何故、何故、お前は喋っている、何故、何故お前は、やめろ、うるさい、喋るから考えてしまうと言ったわけだ、喋らなければいいのさ。
どうすればいいの。
ダメだ。
諦めるしかなくない。
本当に。
俺のため、してくれてるんだよな、俺のため。
見えてしまうんだよ、俺には、
不満に思ってること、あるだろ、嫌だなと思っていること、聞かせてくれよ、離れていくんだよ、距離が、遠のいて、いくんだよ、
別れたい。
俺とか。
分からなくていい、分かってるよ。
分かっているのは俺か、
俺のため、本当か、本当さ、信じてる、だけどその一挙手一投足が、お前の目が、お前の耳が、お前の鼻が、お前の口が、全て、全て、溶けていく。
拒んでいる。
のは俺か、お前か。
蔑んでいる。
のは俺か、お前か。
溶けていく、のは。
俺か。
電子ケトルからグツグツと音がした。
皿を洗う後ろ姿だった。
洗濯機が動いていた。
子供のおもちゃをふんずけた。
のは、俺か。
冷蔵庫が開けっ放しだった。
クッションに醤油をこぼした。
便所に閉じ込められた。
のは、お前か。
見えてしまう。
その内側に、
這い出てしまう。
あははは、そうか、
怖れるな、
人間だろ、怖れるだろ、当たり前だろ、目に見えないものを、頭で認識できないものを、
考えるな、考えるなよ、
立ち止まれ、立ち止まれよ。
そうかなるほど、



電気が消える。(実際消えなくてもいい、消えてもいい)



ああ。
いつまでも眠れる気がする反面、永久に眠れない気がする。
ビデオカメラの録画ボタンが、赤く点滅している。
ぽちゃん、と響いているのは俺の身体か、水道の蛇口か。
あの、月の夜を思い出す。
大きな月だった。
俺は、大きな木の下にいた。
古い木造家屋の前で、立っている女の子がいた。
池に、月が照っていた。
夜だというのに、明るすぎた。
生き物が皆、寝ているように感じた。
女の子は、あの時のお前ではなかった。
雨が降ってきた。
明るい雨だった。
激しく降ったような気もするし、しとしとと降ったような気もする。
傘がなかった。
俺の手が、その子の傘になった。
俺の足が、その子の車になった。
俺の声が、その子のラジオになった。
夜が、いつまでも続くと思った。
一瞬のように、終わってしまうものかとも思った。
この部屋の中にある池に、雨が落ちていく。
テレビのリモコンが雨を停止する。
本棚の隙間から、カエルが飛び出してくる。
木の枝に、昨日使ったバスタオルが干してある。
月のクレーターから、針が動く音がする。
この光景、いや、光景じゃない。
溶け合う、ことを恐れすぎていた。
ぽちゃん、と、響く。
その葉が、その水滴が、その池が、その時計が、そのカーテンが、そのバイクが、その手が、足が、お前が、声が、闇が、矛盾が、夜が、傘が、響く。
響くなあ。



原作 夏目漱石「行人」