稲垣和俊戯曲集

戯曲集をここに。まさかのここに。

おつかれサワーサワー

「おつかれサワーサワー」

  

  女、いる。
  男、歩いてくる。

  男、手に刃物を持っている。
  男、女を刺す。

  刺された女、驚き、刺された箇所を押さえ、倒れ始める。
  刺した男、刃物を抜き、その刃の血を眺める。


男   刺した、俺が刺した、赤い、血が、赤い、いや、赤くない、これは赤じゃない、これは血、血の色、決して赤じゃない、血、刺したから、流れた、刃に、流れた、痛いと思った、肉、肉にズボッと入った、痛いと思った、倒れて、いない、まだ、倒れて、いない、見ている、こっちを見ている、誰、誰だ、こいつ、遅い、止まっている、いや、止まっていない、流れた、血は、流れた、指のささくれをいじりすぎた時も流れた、あの赤が、いや、血の色が、血の色をした血が流れた、同じ、同じ人間、同じような血が流れている、いや違う、こいつには俺のような血が流れてない、刺した、俺が、女が倒れている、いや、倒れていない、倒れ始めている、誰だ、誰だこいつ、この女、さあ、どうする、さあ、刺した、俺、俺が刺した、ごめん、本当にごめん、やばい、とんでもないことをした、さあ、どうする、逃げる、まだ誰にも見られていない、夜、暗闇、逃げる、いや、逃げられない、なんの計画もない、なんの準備もない、逃げられるわけがない、逃げるなんて、逃げたところでどうする、今は、俺が刺した、本当に、俺が刺したのか、嘘だろ、俺じゃないだろ、俺じゃない俺じゃない、俺は刺さない、だって、刺さない刺さない、俺は刺さない、刺したらどうなる、逮捕される、牢屋に入れられる、最悪、死刑、いや、死刑にはならない、もっと何人も殺さないと、いや、なるのか、一人殺しただけでも死刑になるのか、だけでも、だけでもとは何、人が一人死ぬ、死刑、俺が死ぬ、俺は知ってる、刺したら、面倒臭い、いや、本当、刺したら面倒臭い、細々と、俺は刺さない、じゃあなんだ、この手に持ってる刃物はなんだ、赤い血のついてる、いや、これは赤じゃない、俺にも流れている、息をしたかった、大きく息を吸い込んでみたかった、俺が刺した、いや、ありえない、この手に握っている物、これは何、これは刃物、これは、包丁、そう、包丁、この血はこの女の血ではない、これは、俺の血、だから、何の問題もない、このまま立ち去ればいい、立ち去って、見なかったふりをする、しかし、倒れない、時間が止まっている、いや、止まっていない、進んでる、時間は進んでいる、俺が見ている、世界が遅くなった、こんなにも、こんなにも、俺の見ている世界、俺は何、さあ、早く、さあ、立ち去る、誰も見てはいない、いや、俺がやったのではない、見なかったふりをすればいい、暗闇、俺の右足、歩け、一歩前へ、俺の左足、俺だ俺だ俺だ、俺が刺した、いや、家はすぐそこだ、さあ、家まで歩いて包丁についてる俺の血を洗う、ただそれだけ、いや、俺だ、でも、何故、そもそも何故俺だ、俺は刺さない、大丈夫だろうか、死ぬ、死ぬ、死ぬのだろうか、そもそも何故俺だ、包丁は料理に使うはずだった、人参を買ってきた、皮をむいた、皮むき器が欲しいと思った、俺は外に出ていた、何故、何故俺は、そもそも、まずいだろう、自首しよう、罪は軽くなるか、自首すれば、いや、もはや救急車を呼ぼう、体よ、動け、一刻も早く、命は一つ、命は大事、そうだ、救急車だ、一刻も早く、死んでしまうのか、俺か、俺が刺して俺が救急車を呼ぶ、そんなこと、罪、そうか、罪の軽さを、俺じゃない、俺じゃないにしても救急車を呼ぶ、俺か俺じゃない、道端に人が倒れている、それを見て見ぬふりをする人はいない、救急車は呼んであげよう、呼んであげる、何様だ俺、お前が刺しといて、人参を焼いた、人参ステーキと名付けた、何故、俺は包丁を持っていた、料理をするためだった、日が暮れていた、朝が待てなかった、外に出てみた、外は思いのほか涼しかった、見えないとつぶやいた、頭の中だった、何が見えないかは分からなかった、左手には包丁を持ったままだった、人参ステーキには味がなかった、素材の味がした、決して生きていけないわけではなかった、みんな、俺のことを忘れたのかもしれなかった、みんなっていうのは誰を指すのか、みんなっていうのはいつの間にかクラスメートのことを指していた、みんな静かにしてと言った、静かにしなければならなかった、静かにしなければ怒られた、もう四年生なのに、もう五年生なのに、もう六年生なのに、アリを殺しては何故いけないのですか、アリは殺しても捕まらなかった、犬を殺したら捕まるだろうか、飼い犬でなければ大丈夫だろうか、包丁が肉にズボッと入る、血が流れる、小鳥なら大丈夫だろうか、今度やるときはパチンコを作ろう、いい形の枝さえあれば、最高のパチンコが作れる、それで石を飛ばそう、そして小鳥を狙おう、うまく命中するだろうか、素人にはやはり難しいだろうか、何を考えている、殺すことを考えていた、今、俺か、本当に、俺か、俺が、そんなこと考えるか、俺が、人を刺すなんてことありうるのか、俺じゃない、それは俺じゃない、汗が流れている、背中に、お腹に、冷たい、いや、熱い、熱い、血が流れている、いや、流れていない、流れていないそのままの状態が俺だ、見えないとつぶやいた、それが俺だ、俺は人を殺した、女を殺した、いや、まだ死んでない、まだ助かるだろうか、救急車を呼ばなければ、いや、呼ばない、どうなろうと知ったこっちゃない、まだ助かるだろうか、自首すれば罪は軽くなるのだろうか、本心で、本心で謝ることなど可能だろうか、だって、俺じゃない、これは俺じゃない、息ができなくてたまらない、あいつの寝顔を見れなくしたのは俺だった、あいつには俺が見えていた、あいつの作るパスタの味が好きだった、張り詰めた糸が途切れた、あっさりしているものだと思った、目玉焼きを子供のように喜ぶあいつを思い出した、張り詰めた糸が切れた、クーラーとテレビの電源ボタンが光っていた、窓からもれてくる街灯の明かりがまぶしかった、でも笑っていた、俺じゃなく、あいつが笑っていた、俺に道端で倒れている人を助けることなどできるだろうか、本心から、そう、本心から助けることはできるだろうか、愛、果たしてそこに愛などあるのだろうか、愛、そんな言葉を思い浮かべている、俺が、俺がそんな言葉を思い浮かべている、刺した俺が、女を刺した俺が、いい匂いがした、女の匂いがした、思わず目をつむってしまう匂いだった、この匂いは何度も嗅いだことがあった、手に持っているのは包丁だった、握手、握手をしようとした、それだけ、それだけなんだ、握手をしようとした右手に、たまたま包丁があった、それだけ、だから俺じゃない、包丁を俺の右手に握らせた奴が悪い、俺が気づかず握らせた奴、そう、あいつ、あいつのせいだ、俺は刺したかったんじゃない、俺は愛を差し伸べただけ、俺の愛、俺の愛が女にズボッと入った、女の肉に、それは愛だった、いや、愛じゃなかった、血が流れた、俺の愛は切れ味が良すぎた、いつもはあんなに切れないのに、血が流れた、あいつの血が流れた、あいつの血が流れているのは俺だった、あいつの血が流れていないはずがなかった、うどん屋さんであいつがキレた、うどんが来ないだけであいつはキレた、あいつにはなりたくないと思った、そのうどん屋には二度と行くことはなかった、行くことができなかった、下を向いてうどんを食べた、あいつの知り合いとは思われたくなかった、時間が遅く感じた、本当に時間は進んでいるのか、止まっているのか、いや動いている、汗が流れていくのが分かる、ゆっくり、ゆっくり流れていっているのが分かる、悪かった、許してくれ、俺じゃないんだ、俺がこんなことするはずない、いや、俺なんだ、お前だろ、いや、俺だ、想像してみたことはあった、肉にずぼっと入る感覚を、握ってみたこともあった、台所で包丁を握ってじっと見つめたこともあった、でも、俺か、それが俺か、包丁を腹に当ててみた、ひんやりした、小学生だった、火事を眺めたことがあった、火が熱かった、必死になって消火する人たちがいた、俺は野次馬の一人だった、どこかで興奮していた、体の片隅に興奮が渦巻いていた、いや、興奮だけじゃなかった、嫌悪もあった、そんなことはしてはいけません、そんなことは考えてはいけません、何故、何故俺、何故そんなことをしてはいけないのか、個性を持ちましょう、誰かがやったから自分もやる、そんなではいけません、自分を持ちましょう、俺、俺を持つ、個性を持ちましょう、俺の個性、俺は何ができた、俺は人を刺せた、刺したぞ、俺は、誰かも知らない女を刺したぞ、できないできないできない、できたぞ、俺にも人が刺せたぞ、なんてことをした、俺が人を刺した、血が流れた、でも、違う、それは俺の中の別の俺、誰かが俺に乗り移った、そう、誰かが俺を使った、そうだ、そうとしか考えられない、死ぬ、無、自分がいなくなる、眠れない夜、死ぬ、天国地獄、そんなものはあるのだろうか、天国地獄大地獄、天国地獄大地獄、天国地獄、人を殺すと地獄に行きます、地獄、地獄は辛いのだろうか、糸、糸は下りてくるだろうか、俺は、蜘蛛を殺さなかっただろうか、覚えてない、蜘蛛を、昔は掴めた、素手で、掴めた、大人になって部屋に蜘蛛が出てきた、でも掴めなかった、蜘蛛を、ティッシュごしでないとダメだった、ダメ、何故ダメなのか、何故俺ではダメなのか、こんな仕事は誰でもできる、自分の意見を持てと言ったのは誰だ、あいつだ、俺じゃなくても誰でもできる、あいつらはなんて言うだろうか、今からでもあいつらを笑わせることはできるだろうか、倒れていく、まだ倒れていない、でも着実に、倒れていっている、死ぬのか、この人は、俺も人だった、俺は人じゃないのか、俺は人じゃない、別の種類なのか、新たな種族名を与えてくれ、俺に、いや、俺だけじゃないはず、こんなことは何度だってあったはずだ、次の日ニュースになる、大々的に俺の名前が告げられる、画像の荒い俺の顔が映る、それを見た俺の知り合いはどう思う、こんなことをする子ではなかった、クラスではいつもみんなを楽しませてくれる明るい存在だった、えっ、何故だ、何故こんなことをした、明るい存在の俺が何故、考えられない、いや、待て、捕まらなければ話は早い、何している、今すぐここから逃げるんだ、逃げる、俺は逃げなくていいんだ、だって俺じゃない、俺がやったわけじゃない、だって俺のわけがない、俺はこんなことしない、俺は普通に生きてきた、誰にも迷惑かけなかった、笑える、俺は、そう、笑える、猟奇的でなく、少年的な心で笑える、職場の卑猥な話にもついていける、俺は女とやったことがある、童貞ではない、俺は童貞じゃないんだ、決して性をこじらせているわけではない、このあとこの女をどうしようなんてこれっぽっちも思っていない、これっぽちも、本当か、本当にこれっぽちも思わなかったか、俺は童貞じゃない、女とやったことがある、わざわざ人を刺してまで女、女、あいつはなんて言うだろう、いや、俺じゃないんだ、悪かった、俺か、悪いのは俺か、許してくれてもいいだろう、一回だけだ、一回だけだった、誘われた、匂いがした、女の匂いがした、思わず目をつむってしまった、耐えられなかった、唇は柔らかかった、獣だと思った、自分は獣かもしれなかった、欲望かと思った、愛かどうかは分からなかった、あいつに対してもそれは同じだった、愛かもしれなかった、でも多分違った、俺に人を愛することなどできるのかと思った、去っていったのはあいつだった、あいつが去っていってもなんとも思わなかった、でもすぐになんとも思い始めた、俺はあいつだった、あいつが染み込んできていた、着るものもあいつだった、食べるものも見るものも聞くものも歩く道もあいつだった、許してくれよ、許してくれてもいいだろう、本心から謝ることなどできるだろうか、たったの何百年の話だろう、何が悪い、俺の何が悪い、許してくれてもいいだろう、俺は手紙を書かなければいけないのか、この人の遺族に向けて、いや、死んでない、まだ倒れていない、まだ助かる、俺が救急車を呼ぶ、助かる、助けられない、俺にはそんなことできない、この人にも人生があった、いや、あったのか、この人には人生なんてものはあったのか、もしかしたらなかったのかもしれない、俺はこの人を一度たりとも見たことがない、今まで生きてきて一度たりとも、これは本当に人間なのか、人間の形をした人形なのかもしれない、いや人間だ、血が流れている、赤い、血が、血の色が、どこからどう見ても人間だ、いや、人間でない可能性もある、わけがない、どこからどう見ても人間だ、なら俺はどうだ、俺も人間だ、俺は人間と同じ食事をする、人間と同じように音楽も聴く、ゲームもする、カラオケにも行く、俺は人間だ、別の種族名などいらない、俺は人間だ、今年のヒット映画にも感動するし、美味しい料理とまずい料理の違いぐらい分かる、夜が来たら眠くなるし、可愛い女がいたらやりたいと思う、電車が遅れるとイライラするし、蚊が腕にとまったら叩き潰す、俺は人間だ、じゃあ何故刺した、俺は何故刺した、いや俺じゃない、俺か、夢、夢か、夢じゃないか、寝てた、今起きたのか、俺は今起きた、そしたら血のついた包丁を持っていた、血、俺にも流れている、人間、人間の血、人間じゃない血、抑えられない衝動、あいつ、俺、落ち着く、本当に、あいつの血、俺の血、バスケがしたかった、あいつらに誘われた、なんの役に立つ、その経験がなんの役に立つ、バスケットでご飯を食べていくのか、そんなわけない、そんなわけないだろ、お前は何ができるんだ、俺にもできることはあった、ただそれを潰したのはあいつだ、役に立つ、役に立つ人間、役に立たない人間、害をなす人間、お前に何ができる、俺か、俺が刺したのか、いや、俺じゃない、俺だったらもっと刺す、もっと、もっと大量の人間を刺す、俺は人間じゃない、人の間じゃない、人の間にいる、あいつは人の間にいる、過去を見ない、先しか見ない、サバサバしていた、経験人数が多かった、俺は少ない、少ないどころじゃない、でも、童貞じゃない、俺は童貞じゃない、俺は過去ばかり見る、今も見ない、先も見ない、昔のことばかり見る、あいつは先を見る、俺とは違う、先を見るのが人間か、過去を見るのが人間か、今を見ることなんてできない、今は過ぎていく、今を感じることなんてできない、いや、感じる、今を感じる、今この時を感じる、こいつはなんてゆっくり倒れるんだ、俺にどうしろと言うんだ、そんな目で俺を見るなよ、いや見るか、俺が刺した、そんな目で俺を見てもおかしくない、あいつの置いていったものも俺を見つめていた、ぬいぐるみが、本が、俺にどうしろと言うんだ、ごめん、ごめんなさい、刺すつもりじゃなかったんです、死なないで、お願い、死なないでください、時は戻らない、本当に時は戻らないのか、タイムマシンなんてないのか、戻ったってどうしようもない、戻ったって俺は人を刺す、いずれ人を刺す、いや、刺さない、何分か前に、いや、何秒か前に戻れるのなら俺は人を刺さない、それが俺だ、俺はこんな残酷なことしない、肉にズボッと入る感覚、こんな感覚は味わったことがない、いや、ズボッとは入らない、ドバッと、いや、ブシュッ、分からない、こんな感覚味わったことがない、もう一度刺してみたい、あれはどんな感覚だ、ドゥバッ、ジュボッ、もう一度、何故そんなことを考えている、俺はそんなことは考えない、いや、これが俺か、これを個性と言ったら怒られるだろうか、誰に、怒られるのを気にしているのか俺は、そんなことはどうでもいい、今、今この時を感じる、血、血が流れていく、汗、それは俺か、俺はもっと冷静だ、もっともっと冷静だ、焦ることなんて一つもない、俺が刺した、それは事実だ、この手に握られているもの、握ってしまっているもの、いや、握っていない、掴んでいる、俺は、包丁を掴んでいる、握る、握るより強く、掴む、刺すために掴む、いや、刺すためには掴まない、刺すために掴むことはない、刺すためには持つことが必要だった、時には握る、だから刺さない、掴んでいる俺は刺さない、いや、刺した、握る、握らない、血が流れた、腕、腕がある、手、指がある、俺は人間か、人間じゃなくても腕はある、手がある、指がある、物を掴む、掴むことはできる、握ることはできるか、人間以外に握ることはできるか、いや、できる、人間以外も握ることはできる、焦る、焦っていない、焦ることはできるか、人間以外が焦ることはできるか、いや、焦っちゃいない、俺は焦っちゃいない、平静を保っている、あいつみたいな涼しい顔はできない、俺は過去を見ずにはいられない、あいつこそ世の中を上手く渡る人間だ、俺もそこそこ上手く渡れる人間だった、きっと、おそらく、渡る、渡ってどこに行く、世の中を渡るとどこに着く、俺はなんだ、俺は何を求めている、欲望か、これは欲望なんかじゃない、これが俺だ、俺、いや、俺じゃない、俺だ俺だ、俺とはなんだ、俺にできることはあったか、勉強ができた、逆上がりができた、笑わせることができた、それは些細な指の感覚だった、大事なのはどこに力を入れるかだけだった、些細な力加減だった、このことを知っているのは俺だけかもしれなかった、まわりの連中は馬鹿だった、俺だけが泥団子を作れた、サラサラの泥団子を作れた、サラサラしていた、硬かった、絶対に割れない球だった、俺だった、俺だけだった、綺麗だった、つやつやしていた、でもそれは何の役にも立たなかった、ただ綺麗だった、星を見つめていた、宇宙の広さを考えていた、俺の思考は宇宙よりも狭いと思った、一人になって初めて分かった、俺は一人だった、俺は一人ではない、そんなことは分かっている、いや、分かっていない、俺は一人だった、隅に敷いた布団で寝ていた、小バエが発生していた、目をつむるとぐるぐる回った、ぐるぐる回ったのは布団だった、心臓の音が聞こえた、心臓が動いていた、俺は生きていると思った、いや、俺は生きていない、生きていないから刺した、そんなわけがない、生きている、俺は生きている、心臓が動いている、血が流れている、赤い、いや赤くない、それは赤じゃない、赤じゃない血が流れている、お腹が空いていた、一日部屋から出ていないことに気付いた、ご飯を食べるためだけに駅前まで自転車を走らせた、三百円の牛丼を食べた、俺の携帯電話はならなかった、あいつだけだった、あいつからのメールだけだった、それもあっさりなくなった、高校時代の友人とは誰一人会わなかった、中学時代の友人も、小学校時代の友人も、じゃあ、俺は誰に話すことができた、職場の人には見下され始めた、いや見下されてはいなかった、俺が悪かったのか、俺の距離のとり方がいけなかったのか、じゃあ、俺は誰に話すことができた、何を、何を話したかったのか、沈黙が辛かった、電車で帰るほんの数十分の道だった、俺は平静だった、なんとも思っていないはずだった、気が付くと疲れていた、あの沈黙に耐えられない気がした、俺はもっと喋るのが上手かった、俺は何を話したかったのか、あいつとは途切れなかった、あいつらとは馬鹿な話をいつまでもしていることができた、漫画やアニメやゲームや下ネタ、人を笑わせるのが得意だった、でもそれは過去だった、笑ってくれたのはあいつだった、あいつも笑ってくれたことはあった、川に飛び込んだ、水しぶきがあがった、息ができなかった、寒かった、唇が紫色になっていた、唇に石を当ててくれた、熱を帯びた石だった、砂利でザラザラしていた石だった、この石も何年も経ってこの形になっていると言った、俺は何年も経ってこんな形になっていた、刃物で女を刺していた、殺そうとした、血を眺めていた、俺か、これが俺か、許してくれ、罪を償う、なんでもする、なんでもするから、まだ死んでない、救急車を呼ぶ、罪を償う、償う必要はない、いや、ある、俺じゃない、俺じゃないから償わない、そんなバカのことがあるか、これは俺だ、いや、お前だ、お前じゃない、俺だ、俺の、お前だ、お前のことだ、お前が俺だ、けっして、けっして俺じゃない、けっして、けっして生きていけないわけではなかった、俺より辛い人生なんていくらでもある、俺はこんなことしない、そもそも俺は絶望していない、俺の人生は辛くはない、俺は平静を保っている、これは俺じゃない、焦っている、そもそも俺は焦らない、何事も関心がない、関心がなく生きてきたはずだ、何が起こっても平常心をつらぬく、全部のことは大したことがない、ちっぽけのことだ、俺が刺した、女が倒れている、まだ、まだまだ倒れている、大したことはない、平常心を保っている、保っているわけがない、死ぬ、俺の手によって人が死ぬ、この人の家族はたいそう悲しむだろう、俺の家族はたいそう怒られるだろう、この人の家族は許してくれないだろう、この人が許してくれていたとしても、そんなことあるわけがない、俺の家族から自殺者が出てもおかしくない、ちっぽけなわけがない、ちっぽけなわけが、じゃあ何故刺した、お前、お前お前お前、俺だ、刺したのはお前だ、いや、俺だ、血が流れた、肉にズボッと入った、俺の先祖は武士だった、あいつが教えてくれた、だからなんだと思った、外国人は切腹を見てクレイジーだと言った、俺も充分クレイジーになった、クレイジーじゃない、俺はクレイジーじゃない、いや狂ってる、狂ってなければ何故、いや狂っていない、けっして狂っていない、刺したかったからだろ、殺してみたかったんだろ、そんなわけない、俺はそんなことを考えない、いや、考える、俺だからそういう事を考える、いや、考えない、皆が皆ありのままに生きていたら社会は崩壊する、いや、俺のありのままはこれじゃない、俺のありのままは、なんだ、これだ、刺した、俺が人を刺した、風だ、白い砂浜だった、汚い海だった、クラゲが死んでいた、叫んだ、山奥だった、帰れないのかと思った、帰りたいと叫んだ、どこに帰りたいのかは分からなかった、ありがとうと言った、本心からありがとうと言った、鳥肌が立った、寒気がした、耐えられなかった、ありがとうと言う笑顔の俺に耐えられなかった、パンはもう食べたくなかった、こんな仕事は誰でもできるものだった、俺のことを愛してくれた、それは確かなようだった、あいつだった、全部あいつだった、あいつは予想以上に真面目な顔をしていた、それで予想外のところで笑った、どうせなんにならないんだと言った、その言葉が今でも蘇るのは何故だ、なんにもならなかったよ、なんにもならないなんてことはないんだよ、汗が流れている、血が流れている、むしゃくしゃしてやった、むしゃくしゃとは何だ、紙をクシャクシャにした、それをまた広げた、それを提出した、怒られた、感情は殺したほうが生きやすいはずだった、あいつもそうしていたはずだった、あいつに奪われたものはなんだ、置いてけぼりにされたのは俺だった、机の上の物を全部外に放り投げられた、熱中することを見つけるのが早すぎた、大人になってからはもう見つからなかった、木を見つめていた、セミの死骸が転がっていた、虫取り網を使わなくなったのはいつからだろう、生き物は大切にしなければならないはずだった、俺だった、いや、俺は人間じゃなかった、俺じゃなかった、それはお前だった、お前から俺になった、あいつがいて俺になった、だからお前だった、血が流れている、熱い、いや、冷たい、汗が流れている、何がなんだか分からないわけがなかった、それは俺だった、いや、お前だった、俺が刺した、俺が、そんなことはするはずがなかった、俺は平凡に生きているはずだった、だけど刺した、お前が勝った、勝ち負けの話ではない、お前だ、俺を形作っているのはお前だ、そいつがまず動いた、動けるはずはなかった、動くことなどできなかった、そいつがまず蠢いた、蠢くことはできる、蠢くこともできないのならば俺は人を刺さない、俺は武士の血を継いでいる、あいつの血が流れている、いや、あいつの血は流れていない、それはお前の血だった、決して赤じゃないお前の血だった、何故こんなことに気付けなかったのか、どうしてこんなことに気付かなかったのか、包丁を持っていた、お腹が空いていた、人参しかなかった、人参の皮をむいた、皮むき器が欲しいと思った、人参ステーキを食べた、味がなかった、素材の味がした、日が暮れていた、朝が待てなかった、外に出てみた、外は思いのほか涼しかった、俺の手には包丁が握られていた、見えないとつぶやいた、頭の中だった、何が見えないかは分からなかった、俺の左手には包丁が握られていた、なんで包丁を持っているのかは分からなかった、いや、分からないはずはなかった、時間だった、そんなことは誰も決めていなかった、女が前から歩いてきた、俺はぼーっと突っ立っていた、包丁を咄嗟に隠していた、女が俺の前を通り過ぎた、いい匂いがした、女の匂いがした、思わず目をつむってしまった、目を開けると追いかけていた、俺だった、俺が刺した、俺の身体が刺した、俺の腕が、俺の手が、俺の指が刺した、肉にズボッと入った、痛いと思った、痛いはずがなかった、俺が痛いはずはなかった、肉にズボッと入った、ズボッとは入らなかった、ジュボッと入った、いや、ドゥバッ、スパッ、もしかしたら、ヌパッと入ったかもしれない、血が流れた、赤い、赤くはない、血が、決して赤くはない血が流れた、血の色をしていた、刺す、刺した、尖っていた、柔らかい肉だった、柔らかい肉に尖ったものが突き刺さった、のめり込んだ、尖っている、血が流れた、刃物、刃物だった、包丁だった、血が流れた、道具だった、俺の手だった、俺の手の延長だった、俺の手の延長ではなかった、お前の手の延長だった、お前だった、いや、お前ではない、お前たちだった、あいつがいなくなった、あいつが蘇った、あいつが置いていった、あいつが無視した、あいつが笑っていた、あいつが近寄ってきた、あいつだった、あいつがそうだった、あいつの目は先を見つめていた、断ち切ることができた、食べるものがあいつだった、聞くものがあいつだった、あいつ、あいつにとって俺はちんけな存在だった、クラスにとって俺は明るい存在だった、俺にとって全てはちんけな存在だった、だから俺は刺した、いや、あいつによって生まれた、それが俺だった、俺を生んだのはあいつだった、お前を生んだのは俺だった、それは俺ではなかった、お前だった、お前たちだった、お前たちがいて俺がいた、俺は人を殺した、いや、まだ死んでいない、いやもう助からない、助からないのはお前たちだった、助からないお前たちが人を殺した、ズボッ、ドゥチャッ、ザスッ、それはキラキラしていた、でも割れた、少しの衝撃だった、殴ったのはあいつだった、いや、俺だった、お前には俺が必要だった、蠢いているのはお前だった、外は思いのほか涼しかった、公園のベンチにピーチジュースの空き缶が突っ立っていた、帰り道の真ん中に黒い靴下が二足並んでへこたれていた、それはお前だった、蠢いていたのは俺だった、見えないとつぶやいた、つぶやいたのは俺じゃなかった、あいつが生んだのは俺だった、いや、俺じゃなかった、お前だった、お前にはなかった、俺にはあった、でも俺にはなかった、あいつにはあった、お前はいた、お前たちだった、それはお前だ、お前が刺した、俺は刺していなかった、刺すはずがなかった、あいつは殺さなかった、お前だった、俺は人間じゃなかった、人間じゃなかったのはお前だった、やってはいけないことではなかった、それがお前だった、お前から俺になった、あいつがいて俺になった、お前たちがいた、いないかもしれなかった、俺が刺した、俺は刺さなければいけなかった、分からないことはなかった、俺は刺さなければいけなかった、だから刺した、お前だった、それが俺だった、あいつから生まれた、俺が気付かなかった、そこには何もない、お前を殺した、どんな音がしただろうか、ズボッ、ドゥボボッ、俺を殺した、俺を殺したのはお前だった、いや、お前じゃなかった、あいつでもなかった、俺だった、それが俺だった、俺のはずだった、今、今だった、時間だった、刺す、俺は、俺じゃなかった、そういう俺が俺だった、刺した、お前を、あいつには分からなかった、お前だけはそこにいた、クラスで明るくない存在だった、血が流れていた、血が流れていなかった、生きていると思った、それは人参の味がした、思わず目をつむってしまう匂いだった、白い砂浜だった、どこに帰りたいのかはわからなかった、液状の怪物が俺の横にいた、俺は家とドブの間でうずくまった、大きく息を吸い込んでみたかった、セミの死骸が転がっていた、クーラーとテレビの電源ボタンが光っていた、みんな静かにしてと言った、空き缶が突っ立っていた、それは公園のベンチだった、布団がぐるぐる回っていた、自転車を駅まで走らせた、靴下が濡れていた、予想以上に真面目な顔をしていた、絶対に割れない球だった、きれいだった、バスケットゴールが揺れていた、スポーツドリンクが妙においしかった、思わず目をつむっていた、気が付くと外に出ていた、外は、思いのほか、、、

  

  刃物が男に突き刺さっている。

  女は倒れきっている。  

  男も倒れきっている。

  二人の腹から赤い血が流れている。

  沈黙が訪れる。
  二つの死体が地面に転がっている。

 

終わり。