稲垣和俊戯曲集

戯曲集をここに。まさかのここに。

明夜、蛇になれない

 

女、いる。

耳にイヤホン。マイク付き。

イヤホンのコードの先は服のポケットの中。

 

もしもし、もしもーし、聞こえている?私。いきなりごめんね、どうしてるかと思って、どうしてたっていいのだけども、どうということもないのだけども。なんだかね。なんだか、ふと、電話をしたくなってね、いきなり電話をしてみたというわけ。そうそう、いきなりいきなり、ラインで、今から電話していい?て聞く類の電話じゃなくてね、いきなり電話して、いきなり話し始める、そんな電話ね。だからいきなりごめんねとは言ったけど、いきなりじゃなく電話しようだなんてこれっぽっちも考えていなかった、そもそも、今の今まで、電話をしようだなんて考えてすらいなかった、ふと、電話をしようと、今ふと、思ってしまったわけ。なになに、そんな電話に付き合わされる相手の身にもなってみろって、分かる分かる、それは分かる、だけどもこれはいきなり電話だから、いきなり切ることも可能というわけよ。いきなり始まるし、いきなり切れる、そういう類の電話というわけ。そういう類の電話をしたくなることが、現代を生きる私たち人類には起こりうるのではないであろうか。話が壮大すぎる、分かる分かる、だけども、そのような壮大な話がしたいわけではないのね、もっと些細な、ふと、訪れる話でいいのだわさ、そしてふと切りたくなったら切ってくれていいのだわさ。だけどもこの、ふと、というやつはどこからやってくるのでしょうか。つまり、ふと、酸辣湯面を食べたくなる、ふと、全速力で走り出したくなる、ふと、電車の中の吊革を揺らしてみたくなる、この、ふと、というやつはどこからやってくるのかと思ってしまったのは、今の今、私がこの状況下において、ふと電話したくなって、ふと思ったことでありますのですよ。この状況下ということについて、少しばかし話しておきたいんだけどさ、そのために、今日の私のざっくりとした一日について話させてくれね。私は、今日、朝目覚めると異様に身体が曲がっているんじゃないかと思い始めた。つまり、背骨が気になり始めた。いつものように目を覚ましたベッドの上で伸びをした時に、ああ、起き上がりたくないなあ、と思ったのは寝疲れていたからであり、何故寝付かれていたのかと言えば、昨晩、私は、飲んでいたわけでもなく、病んでいたわけでもなく、帰り電車の満員電車のキュウギュウ電車の一番ドア際で、掴む吊革もなく、何度見たのかわからない、ドアちょい上の液晶画面を上目で見ながら、画像と文字で繰り広げられる無音CMを上目で見ながら、停車駅に泊まり、私は、なんかの法則において、その、中学校かなんかの理科でやった速度に関する法則にのっとってね、動き続けようとする私の身体と止まろうとする電車のアレにおいて、うまく立ち続けることができなくなって、身体の重さに負けて、隣の、あんなに狭いギュウギュウ電車の中でさえ扇子で自分を冷やそうとする中年のふくよかな大きなもはやマットと化した身体にほぼ全体重を預けるに至ったわけ。もちろん私は彼がいる方に向かって、伏し目がちに頭を下げたんだけども、そしてもちろん私は彼の顔を見ることはできなかったのだけども、私の錯覚でなければ、彼の視線は私の首の左側面かもしくは、左頭の耳の上あたりに目から点線がテッテッテッテッテと出ているように注がれている気がしたのだけども、彼の方を見たわけではないので分からなかったし、そもそも、停車してドアが開いた瞬間に、降りようとする人々に半分押される形で、その電車を降りて、乗ろうと待っている人たちの列と電車の間の1人専用かの如くぽかっと空いた空間にね、即座に収まってね、大量に吐き出されていく人々を見ていて、電車さんのお腹も大変だ、これは胃炎ものだって、吐瀉物じゃんって私はいつも思うんだけど、その時は全くそんなことは思わずに、その注がれたテッテッテッテッテの点線視線について、言い訳のようなものを考えていたんだけど、だって、聞いてよ、吊革がなかったんだもん、掴むところもなかったんだもん、しゃあないやん、って心の中で、ブツブツブツブツ、怒涛に溢れていく言葉が湧き上がる中、車内に戻った時には、そのふくよかな扇子さんはどこにもいなくて、ふと空いてる席を見つけて歩きはじめるんだけど、向こうからその席を狙ってきているおばあさんとまではいかないが私よりも少なくとも20ぐらいは年上そうな女性に譲るか譲るまいか、だけど確実にこのペースで行けば私のものであるその席を譲るか譲るまいか、という判断を即座に下し、譲るとしたって、私は、もともとそんな席なんか狙ってませんでしたわよ、わはははははー、というスタンスにおいて、その空席手前で右側45度に急速方向転換したんだけども、方向転換した先にはもうたくさんの人が乗ってきていて、なんだかんだで、人の隙間を縫おう縫おうとしているうちに、はたまたドア付近まで来ていて、掴むところあるんやったら見せてみろやってまた喋り始めてみたのだけども、ふと、その無音CMとドアの間にちょいとくぼんでいる部分があって、掴んでくださいとの如くこっち側に伸びている、なんて言ったら、いいんだろう、まあ、とにかく掴むところがあって、掴むところあるじゃん、って思って、しかして、この液晶とドアの間に突き出ている掴むところの掴みにくさったら本当に掴みにくくて、斜め上側に突き出ているならともかく、斜め下に突き出ているのだから、それにプラスして、すべらない材質でつくればいいものを、ツルツル滑る材質でつくっている故に、私の指は汗か油かも相まって一定の場所を掴むことができなくて、尚且つ斜め下に突き出ているために、尚も且つ且つ掴むことができる場所が指の第一関節部分にいかないぐらいの突き出の短さにおいて、私の指は何度も何度も離れてしまうのであったわけね。つまり私が声を大にして言いたいことはね、掴んでくれと言わんばかりに突き出ているものを、何故にもっと掴みやすくつくらないのだ、ってことなんだけども、電車のドアと液晶部分の間にあるちょっと掴める突き出てる部分、掴みにくくねって話をわざわざしようとしても、それはなかなかできない代物なわけでね、どんなに気心が知れた友達でさえ、電車のドアと液晶部分の間にあるちょっと掴める突き出てる部分の話をするためだけに電話をされたらさすがに怒るかもしれないでしょ、大分ムカつかれるかもしれないでしょ、だけども、どうしてるかと思ってトークという、彼、あるいは彼女の近況報告を尋ねるという、電話した全体的な理由はこれですよ、というスタンスにおいて、一部分だけとして、電車のドアと液晶部分の間にあるちょっと掴める突き出てる部分の話を食い込ませるとしたらどうかな、そのようにすれば電車のドアと液晶部分の間にあるちょっと掴める突き出てる部分の話だけしたくて電話をしたとは思われないわけだから、だけども、そんな用意周到に他人を欺いてまでそんな話をしたいわけではなくて、ね。しかしね、だとしてもね、飲み会の席かなんかで、いきなりこの話は持ち出せないわけでしょ、そもそも今の職場では、プライベートに関しては全く関せず理念を誰もが貫いていて、つまり、私は長らく飲み会へのお誘いを受けないわけで、ってそんなことはどうでもよくて。つまりね、つまり、なんだっけ。つまり、この話をするのに一番ふさわしいのがあなただと思ったわけ、だから電話をしたというわけで、ね。なんだっけ、ごめん、なんだか私ばっかり喋っているね。こんなに喋るつもりではなかったんだけども、ね。だけども、電話というのは喋るためにあるんだから、こんなに喋っていても不思議ではないのかもと思う。だって、喋らないとするね、電話して、喋らないとするでしょ、すると、なんだか電話の意味がないっていうか、いや、待って待って、そんなことあるかい、ちょっと待って。喋るのをやめてみましょうか。。。。。。

 

  間。

 

ふむふむ、もしもし、もしもーし、聞こえている?いきなりごめんね、黙っちゃって。とってもあれですね。喋るのをやめたって、電話は電話なのですね。つまり無言を共有している。無言という時間ね。つまるところ電話とは離れた場所におけるお互いの時間の共有てところかしら。どちらかがその電話を切らないかぎり続く時間の共有ってとこね。だけどもあなたとのこの電話はいきなり電話であるのだから、いきなり切ってもらって構わないということになっていて、つまりは共有の時間はいきなり、ふと、はじまり、いきなり、ふと、終わることになるんだけども、まだまだ切ってくれないということは、まだまだ共有していいことが私たちにはあるわけで、そもそものところで、私たちには共有できる時間があまりにもあったにも関わらず、あまりにもありすぎたという気がしていて、私は、なんだか、なんだか、ね。いや、そうそう、なんだかなんだかで電車の話をしていたらだいぶ脇道に逸れてしまっていて、そもそものところで、私は、私の今日の1日について話し始めたのに、今日にはなかなか至らずに、昨日のある時点で、停車していたのだけども、そう考えると電車の突出部分も、扇子さんの点線視線も、おばさんとの空席争いにおける敗北も、全くどうでもいいことであって、つまり、なんで昨日の話をしはじめたかってのはこういうことなのね。最寄駅に着いてね、さっと外に出ると、外は大雨でありました、ザーザーザーザー降っていました、私は傘を持っていなくて、オウマイガットってわけね、だけどもね、そこでね、ふと、ある考えが私には浮かんでいてね。この大雨の中を全速力で走りだしたら、どんなに愉快だろうか。っていう言葉が私の頭の中に浮かんでいて、誰の言葉っすか、って明らかに普段自分が使わない言葉のニュアンスが頭の中に浮かんでいて、この大雨の中を全速力で走りだしたら、どんなに愉快だろうか。って言葉はね、冗談のようにふと発生したこの言葉がね、だんだんと、私の中で膨らんでしまって、本当に、マジで、ガチでやっちゃおうかって、マジで思って、その瞬間即座に、よし、ゴーって走りはじめるんだけど、走りはじめた瞬間コンビニが見えて、コンビニが見えた瞬間、コンビニに駆け込んでいて、600円ぐらいする傘を買った。そして私は歩きはじめるんだけど、もちろんのことで傘をさして、ね。だけど、それは昨日の話で、今、今ここの私も実は歩きはじめようとしていて、つまり、2日連続で私は歩きはじめようとしていて、いや、おかしいね、2日連続で歩きはじめようとするって言うと、なんだか私は毎日歩いてないみたいに聞こえるんだけども、もちろん私は、休日以外には出勤という形で、家から駅まで、駅構内、駅から会社まで、という道のりを毎日のように歩いていて、今言いたかったのは、つまるところ、2日連続で歩きはじめるということを意識しているということになりますでしょうか。昨日の大雨はそれはそれはひどくて、私は、どうしようかと考えざるをえなくて、全力大雨ダッシュをしようかと目論んだわけだけども、いろいろと、後のことを考えたりね、服が濡れることを考えたりね、靴下が濡れることを考えたりで、靴下が濡れるっていうのは、私にとっての世の中でおこる不快ランキングにおいて、大分上位にランクインされると思っていて、まず、靴と靴下が互いに濡れていて、歩くたびに、と、言うより、足をあげるたびに、靴と靴下=足の裏側は少し離れるわけよね、なんで=かは靴下は足にまとわりついているものだからという単純なる理由においてで、足をあげると靴と靴下=足の裏側は互いに離れて、足を踏み込むと、離れたのがくっついて、靴=靴下=足となるわけね、つまり接着面の話ね、あまりにも当たり前すぎることを言っているんだけど、これのどこに不快ポイントを感ずるのかという話で、明らかに後者、つまり足を踏み込んだ際であり、靴=靴下=足、の状態にあり、不快ポイントは踏み込んだ際に起こる身体の重さによって靴下に浸みている水分がじゅわっと、いや、にゅわっと、溢れ出てくるわけよね、肉汁みたいに。ハンバーグ焼いているのをさ、想像してみて。その焼いているハンバーグをさ、ちょっと、ヘラでさ、上からヘラでさ、押し付けてごらん。ジュー、どうかね、溢れんばかりの肉汁が出てきたかね、その現象が私の靴の内部において起こっている、どうかね、だいぶ不快じゃないかね、もちろん、私の靴の中はハンバーグの肉汁のように油ギッシュな水分がでてくるわけではないのだけども、その水分はそれでもあまりに不快でさ、蒸れていて、湿気ていて、そんな水分がじゅわっと一歩歩くたびに溢れていく。その溢れ出た水分が、もうすでにビショっている私の足にまたもやビショりつく。それが第一の不快ポイントね。第一のと言ったのはもちろん第二の不快ポイントがあるわけで、その第二の不快ポイントについて話そうと思ったのだけども、またもやまたもや、本来話そうとしていた路線から乗り換え始めているようであるので、一旦立ち止まってみようと思う。もちろん、ね。もちろん、その濡れ靴下における不快ポイントは全く関係ないという話ではなくて、むしろ昨日久しぶりにその濡れ靴下現象を体験したのだけども、つまり、靴下が濡れるのが嫌で、全力大雨ダッシュをしなかったにも関わらず、私の靴下はそれでも濡れていて、ね、昨日の大雨はそれはそれはひどいもので、600円ちょいのビニール傘をさしても尚、濡れる有様で、つまり、傘によって上からの雨は防げども、風によっての横からの雨にはまるで無防備で、尚且つ、風によって私は十分に傘を操ることさえできずに、尚も且つ且つ、私の右足は、歩道と車道の間のコンクリ部分がボコボコになっている部分に飛び込み、飛び込むというよりかは、急降下し、私の右足=靴=靴下はビショビショになったのであった。だけどもだけどもね。それは、昨日の話であってね、私がしたかったのはもちろん今日の話で、今日の朝の私の背骨はあまりにも曲がっているように感じられて、それは今日気付いたのか、それともずっと前からそう感じていたのか、おそらく、ずっと前からそう感じていたのだけども、今日確実性を持って背骨が曲がっていると思ったのは、あまりにも寝過ぎていて、寝疲れていたからであり、時計も見ずに寝込んでいたわけだから、何時間寝たかも分からないのだけども、接骨院に行こうと思ったのね。結論から言うと、その接骨院には行けなかったわけなのね。つまり私が行こうと思っていた接骨院は、私がこの街に住んでいた時に通っていた接骨院なわけだけども、私があったと思う場所から姿を消していて、それはその接骨院がなくなっているのか、私が久々すぎて場所を間違えているだけなのか、今となっては判断がつかなくて、でも、この階段のぼったよなあっていう階段はあってね。だけども、私はその階段をのぼらなかった。何故なら、私の中に焼き付いてあるあの接骨院の、緑色の、長方形の看板が見当たらなかったから。そして私は目的がなくなったのでした。目的がなくなっても私の背骨は曲がったままであって、つまり私の背骨が異様に曲がっている原因は、誰でもできる、簡単データ入力のお仕事の如きカタカタ作業を始めて一年以上経過したことにあるのだと思われるのだけども、そのカタカタ作業の座り作業において、PCのディスプレイと見つめ合って、カタカタし続けていた私は、私の背骨は、徐々に徐々に、あまりにも徐々に徐々にカタカタカタカタと曲がっていってしまったのであったわけよ。そんなゆったりとした変化が私の体の中には起こっていてね、って、そんなことはどうでもいいんだ、そうして接骨院に行けなかった私は、すぐさま、即座に、一刻も早く自分の家に帰ろうと地下鉄の改札をくぐり、電車が来るのを待つために、ベンチに座っていて、ベンチに座りながらも、久しぶりに来たこの街のことを思い出していて、思い出しながら、幾度も着いては出発していく電車を眺めていて、ついに、念願の今に至るわけね。つまりふとあなたに電話をしたというわけ。今、やっと今にたどり着いたのだけども、これから、今これからの今日について話そうと思っていて、私はふと、こういうことをしてみようかってのが浮かんでいて、昨日のふと浮かんだ大雨全力ダッシュは実行に移すことができなかったというのがあって、私は、ふと、こういうことを考えている。つまり、あなたの家に行ってみようかと思っている。あなたと住んでいたあの部屋に行ってみようかと思っている。大丈夫、大丈夫よ、全然大丈夫。全然大丈夫だから、ね。あなたに何か訴えかけたいとか、あなたに一言かましてやりたいとか、あなたと少しだけでも一緒にいたいとか、ね、そういうのじゃないから、ね、なんだか、ふと、この駅からあの部屋まで、毎日通っていたあの帰り道を歩いてみようかと思っている。わけで。どう思う。どうも、思わない。それは行ってもいいってこと、かね、行っても差し支えはないということ、かしら。私は今、立ち上がっている、私は今、歩きはじめようとしている。これがさっき話した、あれ、さっきだっけ、もっと随分前のようにも感じられるのだけども、私は2日連続で歩きはじめようとしていて、否、否、2日連続で歩きはじめようとすることを意識していて、この話についてはしようと思った途端にどこかへ飛んで行ってしまったようであり、歩きはじめることを意識するためには、立ち止まっていることが必要で、そもそもそもそも、立ち止まっていないと歩きはじめることができないわけで。ね。立ち止まっている。文字通り、立って、止まっている。なるほど、こういうことも言えるわけだよ。つまりは、昨日の私も今日の私も歩きはじめることを意識していて、つまりすなわち、私は2日連続で立ち止まっているわけであり、すなわちすなわち、昨日までの私は歩きはじめることを意識していなかった=立ち止まっていなかったとも言えるのではないか。いや、待ってよ、と。そんなわけあるまいか、と。そんなら君は、電車を待っておる時、信号を待っている時、コンビニで列に並んでいる時において立ち止まらないのかい、って声が聞こえてきそうであり、イエス、イエスでありますよ、つまりすなわちどんなに立ち止まっていようと、立ち止まったと意識しなければ、それは立ち止まったことにはならないのですよ、ね。 逆に言えば、どんなに歩いていても、走っていても、笑っていたって、泣いていたって、羽ばたいていったって、とんぼ返りをしていたって、今、立ち止まったと思えば、それは立ち止まっているわけで、私はコンビニでレジに並んでいる間、あ、今立ち止まったな、今立ち止まったよ私、とは思わないわけで、私が今、何故にこんなに立ち止まっている立ち止まっていると話しているのかは、私は現に、文字どおりにも、はたまた意識の上でも立ち止まりながら、目の前に電車はゆっくり到着しているからであり、プシューっ、ピンポンピンポン、と開いたドアから電車に乗れば、即座に帰ることができ、今日は接骨院に行ったのに、接骨院がやってなかったから何にもしない1日だったな、はははー、と笑い話にしたところで、誰に話してもしようもないことは重々承知の助な故に、誰にも話さないであろう笑い話、笑い話でもないのかもしれない失敗談を増やすだけで、身体を休めることができる我が家に帰ることができる家に帰ろうか帰るまいかと、立ち止まっていて、帰らないにしたところ、この電車は最終電車であるようで、つまり私は何時間このベンチに座っていたのかもわからないぐらい座っていて、いや、今は立っているのだけども、文字通りに、立って止まって眺めているのだけども、ちょっと前まで、ホンのちょっと前までは座り続けていたはずであり、それなのに私は背骨の曲がり具合については、忘れていて、こんなに座り続けていたならば、私の背骨は一気に曲がりを進行させていたはずなのに、背骨のことは一切気にしていなかったという事実を今知って、今驚きを隠せないわけで、そもそものところ、私には本当にそんなに長い時間を、あ、あ、あー、あ。。。。。。いや、後悔なんてしていないんだけどね、もちろん、私がこんなに長々としゃべっている間に、扉は閉まってしまったようで、プシュー、プシュシュシュー、と動き始めているわけで、つまり私は最終電車を逃したってことになるわけで、それはあまりにも当たり前な事実確認となるわけで、そして私は歩きはじめている。ね、歩きはじめた。もしもし、もしもーし、聞こえている?歩きはじめたよ。だから何って、ね。まず、この地下の空間から抜け出ないといけないわけだけども、この駅には改札階に行くために二つの出口があって、つまり中央改札口と西口改札口とあるわけだけど、私は、何年かここを最寄りとして住んでいた経験から西口改札は夜十時に、いや、十一時だっけか、にシャッターが下ろされることを知っていて、つまり私は、中央改札口から出るしかないわけでいて、あ、これは、なんだか、とても気になるものを見つけてしまったわけだけども、地下鉄のホームに水飲み場があるという事実に私は、気付いているようで気付いていなかったようで、つまり今まで意識したことがなかったようでいて、あれ、この駅にもあったっけか、という驚きもあって、ホームにある水飲み場、つまり蛇口式の、上から噴水のごとく勢いよく飛び出すやつと、下に流れ出る、複合タイプの水飲み場で、公園とかにもたまに置いてある、この水飲み場を駅構内で見たという記憶はあるんだけども、それは、この駅だったか、全く違う地下鉄のどこかのホームだったか、定かではなくて、ただひとつ言えることは、ホームに置いてある水飲み場で、水を飲んでいる人を私は一人も、今までで一人たりとも見たことがないということね、もちろんのことで、私もそこで水を飲んだこともなければ、手を洗ったことさえなくて、ってあれ、え、うわ、あれ、マジかいや、マジかいや、いや、いい方の驚きなのであるが、魔化魔化不思議な現象が今の私に起こったというわけなのでありんす。つまり私は階段をのぼって、改札機が見えたところで、水飲み場の話をしながらも、ああ、と思っていて、それはさっき話したとおり、私は今日、接骨院に行けなかったが故に、すぐさま、即座に、一刻も早く、家に帰ろうと改札をくぐったにも関わらず、私は、電車に乗らなかった。つまり、私のパスモはこの改札機で悲鳴をあげるはずで、それはパスモは入場券として使用できないからであり、ある駅から乗って、その駅で降りようとしたら、ピンポーンとなるはずで、駅員さんにすみません、間違って入っちゃったんですけどー、なんて適当なやりとりを済ませなければ出られないわけなのにも関わらず、私のパスモは難なくこの改札機を通過した。摩訶摩訶不思議アドベンチャーではないかね。え、そんなに不思議ではない、待った待った、私は、入場券などというものは必要かという疑問を投げかける立場の者である。入場券というものは、券売機の端っこの離れ小島みたいなところにあるボタンで120円か140円かそこらで買える、駅構内に入るため専用の券であり、つまり、友人、家族、恋人など親しい存在が遠く離れていく状況下、ホームまで見送りたい、列車が発車するのを見送りたいと、そういう人専用の券であるよね。ほぼほぼ。だけども私は入場券を使って改札を通っている人を見たことがないわけで、それは水飲み場を使っている人を見たことがないというのと同じに見えて実は全然違う現象だってことに私は気付いているのだけども。つまり、改札を通っていく人が交通系ICカードやスマホで改札を通っていくのか、切符で通っていくのかは一目見れば即座に、否応なしに分かるのだけれど、その中で切符で通っていく人が、入場券で通っているのかそうでないのかは、いくら念入りにジロジロ見たって分かりっこないわけであるのよね。つまりここが入場券と水飲み場の違いであるわけで、入場券を買うというのは、買った本人以外、ほぼほぼ認識できないってことね、その反面、ホームの水飲み場で水を飲んでいる人がいれば、一目でわかるわけであり、あ、水飲んでる、と、本人だけでなく、その光景を見た誰もが思うわけであり、にも関わらずも、私はその光景を見たことがないというのは不思議な話で、つまり入場券はもしかしたら、私が見ていた光景の中で使われていたかもしれないが、水飲み場は、今まで私が見た光景では一度たりとも使われたことがないってことなのね。そもそも私が使うような駅で入場券なんて使われることはあるのかしらって思うんだけど、田舎のさ、そこからしか街の外に出られないみたいな駅とか、その県や街で一番大きい駅とか、新幹線が通っている駅とかなら分かるよ、サヨナラにふさわしいって言うかね、さよーならーって、手を振りながら、電車を追いかけていく映画の名シーンが浮かぶけども、私が使うような地下鉄だとか、都内の五分待ってれば一本来るような電車で、さよーならー、はしたくてもできないわけで、さよーならー、なんてしても、実際、人はたくさんいるわけだから、さよー、あ、あ、あすみません、さよーなら、あ、あ、ちょっとそこどいてもらえますか、あ、あ、あー、てな具合に、人の位置情報を完全に網羅した状態でないと、中途半端なさよーならーになってしまうわけで、そんな大声で追いかけたりはしないにしたって、だけども、そもそも私たちにはそもそもそもそものところでさよなら電車の場面なんて時は訪れるのであろうか。とか話しながらも私は階段をのぼっていて、今、まさに、今、地上に降り立ちましたよ。降り立つ、のぼり立つ。のぼり立ったその場所について話そうと思うのだけどもいいかな。よくなくたって私はしゃべるんだけども、私たちは今、しゃべるということ以外はもはやなにもできないのだからしゃべるしかないわけで、そんな私がこの街について話そうと思っているというのはどういうことかしら。かしら。かしらなんて言ってる。私。かしらなんて言ったことあったかしら。そんなタイプだっけ、私、そんなキャラだっけか。だけども、そんなタイプでもキャラでもなくたって、かしら、と言いたくなる時はかしらって言うものなのではないかしら、あら、こんなところに回転寿司屋なんてあったかしら。牛丼屋さんと蕎麦屋さんと並んでいるのはあの時のままであり、回転寿司屋はあったかどうか、あったとしても意識していなかっただけなのかしら。なるほど、変化しているというのは、変化する前があってはじめて感じられるものであるとは思わないかね。つまり私の背骨は曲がっていなかった。曲がっていたとしても、曲がっていないかの如くに意識できていた、だけれど、徐々に徐々にと、カタカタするうちに曲がってしまっていた。この曲がる前の背骨を私が感じられていなければ、それは曲がっていたとしても曲がっていないということになるのだろうと思うわけで、それは回転寿し屋なんてあったかしら、という現象に沿って考えるなれば、回転寿し屋になる以前の情報をおぼろげながらも持っていて、そこには回転寿し屋なんてなかった気がするのだけども、少なくとも、回転寿し屋のあった場所を意識することはなかったわけだから、回転寿し屋なんてなかったということになりはしまいか。つまり私の回転寿しにかける注意力の話がそこから沸き起こってくるのよね、私は回転寿し屋があれば見逃さない。回転寿し屋が住んでる街のどことどことどこにあるかは基本的に把握しているというわけ。私は昨日の大雨でビショビショにビショったわけであるのだけども、ビショビショにビショリながらも考えていたのは回転寿しのことなのであって、これは本当に偶然としか言えなくて、今日回転寿しの話がふっと出て思い出したのは、昨日、電車に乗る前に、私は確かに回転寿しのことを考えていた、行こうと思っていた、炙りトロサーモンのことを考えていた。だけども大雨によっていくことを断念した。断念したというより忘れていた。そのことを思い出したのは濡れ靴下現象におけるハンバーグの肉汁のことを考えていた結果であり。そこから、私は一人回転寿しにおける極意について考え始めていたのだけども、考えてみると面白い話で、私は、昨日から、なんだか実行できていないことが多すぎるのではないか。ねえ、思わない?接骨院に行けなかったわけだし、全力大雨ダッシュもできず、回転寿し屋にも行けなかった、そんなに多くないか、普通か、もしもし、もしもーし、聞こえている?どう思う。そんなに多くはないかね。今ね、あの大通りの古い携帯ショップを左に曲がった、パチンコとかDVD鑑賞室とかある商店街に入った。チェーン店の飲み屋さんがいっぱいあって、看板がどれも明るめの色で、ゲームセンターのシャッターは閉まっている。だけどもここに立ち食い焼肉の店なんかはなかった、それははっきり分かる。何故ならば、その変化前を私は知っているからで、そこは立ち食い焼肉ではなく、汚い定食屋だった。おじさん一人でやってる、カウンターだけの。私はその定食屋のことを覚えているわけなのだけども、それは私がこの街に引っ越してくる前に来たことがある定食屋で、この街について物心がついたのはこの時だと言わざるをえなくて、物心がつくというのはちっさい子の意識がはっきりしてくる時に使われる言葉だと思うのだけれども、これはもっといろんな場面で使える言葉だと思っていて、どうかね。例えば私が鳥獣戯画を習い始めたとするね、鳥獣戯画でなくとも、ボルダリングでも、消しゴムサッカーでも、なんだっていいんだけど、最初は鳥獣戯画を習い始める前は、てんで分からず鳥獣戯画という全体をざっくりと見ることしかできないのではないかと推測するのだけども、だんだん鳥獣戯画に触れ合うにつれて、戯れるにつれて、このウサギの耳の跳ね具合が絶妙だとか、カエルの口の内部構造が簡素で、この簡素さに食われたい、なんて、初めての時には感じられなかったことが感じられるようになってくるんだと思うんだよね、そこで私は鳥獣戯画に対して物心ついてきたなあー、私、なんてことを思うんじゃないかしら。もちろん私は鳥獣戯画を習い始めていないし、今後も習い始めることはないと思うし、そもそも鳥獣戯画ていうのは習い始めるものなのかどうかさえ分からないのだけども、つまり物心がつくというのは何に対しても言える言葉であるわけで、鳥獣戯画にしろ、ボルダリングにしろ、電信柱にしろ、自動販売機にしろ、初期微動継続時間にしろ、ハビタブルゾーンにしたって、何に対しても物心がつく可能性があるわけで、そこで、私は何を言いたいのかと、物心、物心と、ものものごにょごにょ言ってますが何を言いたいのだと、もちろん私が言おうとしていることはあなたに関してのことであって、それ以外ではありえないのだけれども、あなたに対して私は物心がついていたのかしら。私たちは言わずもがな、同じ時間を共有し、同じ部屋を共有し、同じ街を、同じ生活を共有していたのだから、あなたに対して物心がついていないってのはありえないことじゃないかしら。だけども物心はつくというのだから、はがれるという事態もありうるのではありますまいか。 あなたが剥がれて行った時、あなたがふと私から離れて行く時、私はオウマイゴット、ドンリーブミー、プリーズドンゴーエニモアーと言えなかった。言えなかったというより言わなかった。なんだそういうものかと考えていた。そこには絶望も失望もなかったようであって、だけどもそれは私しか知りえない感情で、入場券を買ったということは買った人しか分からないように、扇子さんの点線視線がどこを見つめていたのか、その行方を見届けなかった私には分からないように、だけども、その変化前がどのような状態だったのかを意識できていなかった私には、変化後がどれだけ変貌しようと分からないことであるわけで、それは、物心が剥がれていったということと関係していると思われるのだけども、あれ、なんだっけ、なんで私こんなにしゃべっているのかね。おかしくない。おかしくないか。もしもし、もしもーし、聞こえている。今ね、さっきの商店街のコンビニの角を右に曲がって、宅配便センターとかおしゃれな保育園がある道を通り過ぎて、大きな車道に出て、六車線の大きな通りにおいて、立ち止まっている。なぜならば信号は赤だから。少しばかりしゃべりすぎたようであるね。ちょっと黙ってみましょうか。。ちょっと黙ってみる。どうしてちょっと黙ってみる必要があるのかね。少なくとも、私がこうしてものものごにょごにょとしゃべり続けているよりかは、黙るという行為によって無言の共有を感じていた方が幾ばくかマシだろうさね。だけれども、その無言の共有はどことなく強制的ではありはしないかい。なるほどなるほど、しゃべるということは、突き詰めて考えるならば、音を息にのせているという、ただそれだけであるわけさね。そこに唇や舌の動きが乗っかり、様々な音が発せられて、その音が組み合わさり言葉になって、その言葉が組みわさって私はしゃべっているというわけさ。つまり私は、何かをしゃべり続けているというより、音を奏で続けていると言っても過言ではないわけで、いや、過言だ過言だ、そいつは過言だよ、もちろんのことで私は音楽奏者でもなければ、ボイスパーカッショニストでもないのだから。ね、だけれども、私が今こうしてあなたのところに向かうと言った時にさ、こうして電話をする必要なんかなかったわけで、黙って行ったってよかったわけで、だけどもそれでは充分ではなかったようで、そこに私がしゃべり続ける原因と呼ぶべきものがあるはずなのだが、そもそもの始まりは、ふと電話をしてみたくなったということにあるわけじゃない。ここでふと問題が沸き起こってくるわけで、もしかしたらね、、もしかしたらふとにも原因があるんじゃないのかと踏んでいるのだけども、例えばね、例えば。信号が青になったから私は歩き始めたって文章は意味がわかるよね、だけども、おはぎがとても美味しく感じられたから私は歩き始めたってのはどうだい、あら、私は何を言っているのかしら、歩くという例えはこの場合だいぶ適していないように思われるのだけども、そもそも、歩くには目的があるのだから、目的がないにしたって、つまり散歩ということになったってね、散歩するという目的で歩いているのだから、歩くという目的で歩いているのだから、あれ、なんだっけ、なんの話だっけ、おはぎ、おはぎの話してたよね、何でおはぎの話をしていたのでっしゃろ、でっしゃろ。でっしゃろなんて言葉を使っていたでっしゃろか私。そんなキャラだっけか。もしもし、もしもーし、聞こえている?今ね、横断歩道を渡って、突き当たりにコンビニが輝いている道を左に曲がって、何の会社かよく分からぬ会社があって、何の店かよく分からねえお店があって、そのすべては暗いのだけども、線路に沿って通っているこのような道に川など流れていなはりましたか。川。川なんてあったかしら。そこの高架下の絨毯クリーニングのお店は覚えているとして、その前に野球ができるような広場はなかったくないか、あれ、なかったくあったっけ。もしもし、もしもーし、聞こえている?つまるところによると、しゃべるということは、何かを伝えたいからしゃべっているわけでなくて、しゃべる相手との関係をあーだこーだしたいからしゃべっていると言っても過言ではないっすよね、いや、過言だ過言だ、過言じゃないっしょね、究極、しいたけーしいたけー、とあなたに向かって言った時に、私はしいたけのことを伝えたいわけじゃないじゃん、しいたけって言葉で愛を深めることができるかもしれないわけじゃん、もしくは、しいたけーしいたけー、って言った時にさ、逆にさ、愛を断ち切ることだってね、待たれい待たれい、しいたけの話はどうでもよかよ、つまり続けるところ、私が上司に向かって、今日暑いですねーと言う時に、今日は暑いってことを伝えたいわけではなくて、今日は暑いってことを伝えた際に帰ってくる反応を見ているわけで、今日機嫌良さそうだな、とか、そこから紡がれていく関係を求めているわけでっしゃろ、重ねて例をあげよう、例えば居酒屋で誰かと二人っきりになった時に、私たちはしゃべることがなくなることを心のどこかで恐れているのさ、だけどもだけども、少なきにしても私はあなたにしゃべりたいことがあるからしゃべっているわけよね、わけかね、どうだい、本当にそうかね、オウマイゴット、ビックバン、世紀の大発見ではないかね、ないかね、つまり果てるところ、私はあなたにしゃべりたいことがないからしゃべっている、そういう事態が起こってはるわけですな、待ってくんなせい、待ってくんなせい、どういうこったい、うーむ、こんなところに地下へと続く階段なんてなかったぞ。ここにたこ焼き屋の屋台なんてなかったし、ここに長い下り坂なんてありませんでしたわよ。もしもし、もしもーし、聞こえている?ここはどこだい、あなたと過ごしたあの部屋はどこかしら。だって、おかしいじゃない、六車線の横断歩道を渡って、突き当たりにコンビニが輝いてるところを左に曲がって、線路沿いの道を進んで、坂道を登ると十字路にぶち当たるはずじゃない。あの十字路はどこかね、住んでるのか住んでいないのかわからない汚い木造家屋なんてなかったし、古い化粧品屋のショウウインドウなんてなかったし、バスケットゴール付きの青い家などなかったわけだ。そう考えるなれば、昨日の全力大雨ダッシュの未実行も扇子さんの点線視線も駅のホームの水飲み場も濡れ靴下現象における不快感もなかったわけでございまする。ございまする、そんな言葉を使っているのが私でござって、私はただただあなたのところに向かっているだけなのだけれども、ふと立ち止まってみて思うことにゃ、それはやっぱりあったという気がしてならなく、そこにふとの真理が潜んでいて、ふと、というのは、立ち止まってみるという言葉が省略されているわけじゃよ、ふと、にはそれまでの時間を区切る作用があって、ふと。ふっと。ふっ、と。この、ふっ、の時間は、それまで私どもが過ごしていた時間から、ふっ、と、解き放たれるようであり、制限されるようであり、ふと、立ち止まってみると、こういうことを考えていて、ああいうことをしてみていて、と気付くわけでいてさ、ね、ふと、電話をしてみて、ふと、歩き始めていて、ふと、道に迷っている。もしもし、もしもーし、だけども、私たちには、その変化前のことはどうしてもおぼろげにならざるを得ないのであるからして、その変化後ということについてとやかく言うことは不可能なのかもしれないわね、そもそも物心が剥がれていくという事態と直面していた結果によりけり、私にはもちろんのことで、あなたが離れて行った時のことを思い出すことができないようであって、それは受け入れるということに密接に関わっていて、物心が剥がれた状態の私にはその事態を受け入れることはあまりにも安易なもののようにとらわれるわけでっしゃろ、容易な受け入れ態勢を取っている自治体に向かって、容易じゃなくせよなんて言えないわけで、つまり入場券は買うことはできないわけでいて、それはさよなら電車の場面に立ち会えない私のことであり、電車のドアと液晶部分の突出部分のことであり、食べることができなかった炙りトロサーモンのことであり、とにもかくにも、カタカタカタカタと曲がっていっていく私の背骨が全ての原因でござって、否が応でも私は私のその背骨と向き合わねばならぬと考えているのだけども、背骨と向き合うというのは土台無理な話であって、つまり向き合うという時に、どこを起点として向き合うのかと言えばそれはもっぱら顔であってね、その顔の裏側に背骨が繋がっているわけであるからして、背骨を向こうとすればするほど尻尾を追いかける犬の如く、くるくるくるくると回ってしまうわけじゃない、挙げ句の果てにうー、ワン、ワン、と奇声を発する病に至るかもしれぬでござる、そこで尻尾に噛み付いた蛇ならば神話性があって、神々しくも思えそうなものにゃんだけど、尻尾を追いかける犬にしかなれない私の滑稽さはあまりにも悲劇的と言えよう。しかしその悲劇を回避する手段は思いついちゃってるんでありんすよ、どんづまるところによると、私の身体の表側を裏側にひっくり返すと行った荒技でありましょうか、そうすることによってしか私は背骨と向き合えないのであり、そうすることによって私の内側は外に開かれざるを得ないのでっしゃって、私の内側=世界となるわけでござって、つまり接着面の話であるのだけども、私の内側=世界となった私に見えているのは、紐で囲まれたガソリンスタンドであり、どこまでも続いていく街灯であり、観覧車が輝いていて、ひまわりが漂っていて、民家に付随した駄菓子屋があって、柳の木が並んでいて、蠢いている川があったかもしれなくて、=私の内側となっていくわけであるわけなのだけれどもそこに至っても尚、尚の事、尚の事とはどういうことだろう、果たして世の中に尚の事以外のことなんてあるのだろうか、あるに決まっていたとしても今の私には、尚の事としか言えないわけでいて、ね、そもそものところで、

 

  タンタラタラララタラララ、タンタラタラララタラララ、タンタラタラララタラララ、タンタラタラララタラララ、、、

 

  ポケットからスマホを取り出す。

  電話に出る。

 

  誰かがしゃべっている声がする。

 

  そっと耳からスマホを離す。

 

もしもし、もしもーし、聞こえている。私。聞こえていますよー。たどり着けないということかしら、何もかもが遠いようであるね。もしもし、もしもーし、だけどもだけどもね、いや、いいや、じゃね、ばいばーい。

 

  明かりが消える。

   

スマホの光だけが灯っている。

ゆらゆらと漂って、消える。

 

終わり。