稲垣和俊戯曲集

戯曲集をここに。まさかのここに。

蒟蒻談義

「蒟蒻談義」

 

 ・登場人物

 1 … コンニャクセラピーのセラピスト、最近作家としてデビューした。

 

 ・凡例

――――― …引用

◆   …こんにゃくが降ってくる。

 

 

 1、壇上にて講演を始める。

 

1 

ええー、本日はお招きいただき誠にありがとうございます。ご紹介に預かりました通り、「蒟蒻」というドストレートなタイトルの小説を発表させていただきました小室坂宮前と申します、名前だけでも覚えて帰ってください、名前でなくてもいいです、こんにゃくの人と覚えて帰っていただけたらありがたきことこの上なしです。さて、今日の講演会ですが、拙著「蒟蒻」について思う存分、喋っていただきたいということでありまして、私、実は非常に興奮しております。というのも私、実際作家が本業ではなくセラピストという肩書きでコンニャクセラピーという施術を施すのが本業なものですから、そうですね、セラピストって、あれでしょう、やっぱり患者さんの心を落ち着かせてあげようって職業なわけでしょう、そんな人種がワーワーワーワー喋っちゃやっぱ迷惑でしょう、落ち着かないですよね、心が。しかしながら困ったもので、私のサガ、というのでしょうか、こんにゃくについて喋りたい喋りたいと心の片隅に、いや、心の片隅というのは月並みな言葉ですね、なんてったって、今や私、作家なのですから、言葉にどこまでもこだわりたい、そんな気持ちがあるものですから、そうですねえ、心の1LDKとでもしてみましょうか、心にも1LDKがあるのかいなって、思ったあなた、逆に考えてみてください、心に片隅なんてあるんでしょうか、片隅があるってことは中心があるってことです、つまり心を空間として把握しているわけです、空間があるならば物も入れられる、物も入れられるならば、小屋も建つ、さあ、電気水道ガス汚水設備を整えて、1LDKの完成というわけでさあ、さあさあさあ、私は今なんの話をしているのでしょうか、実際私にもわかりません、しかしながらこれだけははっきりとしています。私が書いた小説「蒟蒻」とは全く関係ない話をしています、失礼しました。さて小説です。実際こんにゃくとは奇妙なものです。誰がこんな食品を考えたのでしょうか、そもそも、芋です、どうして芋がこんなぷるんとした食感に変わるのでしょうか、見れば見るほど不思議です、不可解です。しかし私たち、実際こんにゃくにそんな疑問を投げかけるものなどいません、当たり前です、そんな疑問の投げかけ方してたら生きていけません、生きていけませんが、私、他の食材より何よりこんにゃくが不思議なのです。米も卵も魚も肉も野菜も豆も、ああ、なるほどと、なるほどそういう形かそういうフォルムかと、実際なるほどなんて思わないんですが、素通りできます。しかしこんにゃくだけはダメですね、まずなんですか、あの色、あの色何色なんですかね、黒っぽーい、灰色っぽーい色、実に不可解な色してませんか?あと黒いぶつぶつあるでしょ、あれなんなの?シミみたいな奴、なんなん?ちょっと調子乗ってません、こんにゃく、一回シメといたほうがいいんじゃない?ってでてきたのが、手綱こんにゃくというわけです。あれなんなの、なんであんな形してるんですか、なんで手綱にしなきゃならんかったの?ユニークすぎません?形、形ユニークすぎやしやしませんか?ってさっきからこんにゃく専門家みたいな登場しといてこんにゃくのこと全然分かってないやんけって思ったあなた、正解です。越後製菓、なんつって、あ、すみません、今のはなしで、なしでお願いします、あ、恥ずかしい、越後製菓は本当恥ずかしい、いや、調子乗りました、シメてください、シメにシメて私を手綱こんにゃくにしてもらいたいって、ねえ、まあ、なんでしょうねえ、そんな冗談は棚の上に、重箱の隅の隅の隅のほーうに置いとかせていただいて、ここからが本題となります。そうですね、私もこういう講演会初めてなものですから、皆さま方との距離をはかりかねているところがありまして、温度やら湿度やらなにやら適切なところで話をしたいと、出来る限り努めていきたいわけでしょう、よってこんな変な冗談やなんかも挟んでしまうわけなんですが、そうですね、小説のことです、小説の内容に踏み込む前に、この小説を書こうと思った経緯についてまず、話させてください。古今東西、こんにゃくが文学になったことはありませんでした。これはかなり奇妙なことです。何故なら文学の題材としてこんにゃくほど適している食べ物はないと私などは思うわけです。もちろんおにぎりや卵焼き、おみおつけ、秋刀魚の塩焼きなんて文学の題材としてもってこいなわけです。もうそれらが小説の中に出てくると聞いただけで、私なんか涎と共に涙が出てきてしまいそうであります。実際誰もが知ってる大文豪芥川龍之介ニコライ・ゴーゴリの「外套」と「宇治拾遺物語」という実に見事な食材の組み合わせを大鍋の中で沸立たせ「芋粥」という名作短編を書き上げました。小説の神様と呼ばれる志賀直哉は「小僧の神様」の中で鮨に憧れる少年とそんな少年に鮨を食べさせてやる神様のような人物との交流を描いております。ロシアを代表する劇作家で小説家のアントン・チェーホフは「かき」において、物乞いの少年がレストラン内の張り紙に書かれた「かき」という知らない単語に興味を示し、父親の雑な説明をもとに得体の知れない生物「かき」について空想を膨らませていくという想像力を掻き立てに掻き立ててくる小説を書きました。殻の中のカエルのような生き物「かき」を読者が各々の頭の中で作り上げるという食文学の傑作中の傑作と言えるでしょう。これらの小説の共通点を挙げるとすれば、欲望の対象としての食ということが言えるかと思います。芋粥も鮨もかきも、登場人物が食べてみたい対象として、達成したい夢として存在するわけです。しかしながらこんにゃくについてはどうでしょう。こんにゃくはスーパーで百円で売っています。なんならそこいらのコンビニエンスストアに駆け込めば夏のうちからおでんの汁が染みに染みたこんにゃくが食べられるというわけですね。つまりどんなに極貧生活をしている人でも頑張って食べようと思えば食べられる、それがこんにゃくなのです。決して欲望の対象とはなりません。で、あるにもかかわらず私がこんにゃくこそ文学の題材として適していると思うのは先ほど申し上げました通り、こんにゃくは不可解だからです。文学が扱う問題として一番魅力的な題材こそ不可解なものと言えるのではないでしょうか。実際私たちはわからないものに対して奔走する登場人物たちを何人見てきたことでしょう。それは大抵わからない事態、わからない人、わからない自分と言った、見えないことに対するわからなさが中心となることになります。そんな中、視覚的にわからないものとしてのイメージをそれらに重ね合わせることを実に見事にシンプルな言葉で達成したのが遅れてきた第三の新人、鯨井次郎の「ラグビーボール」という小説でしょうか。そうですねえ、これなんか私は若い頃から本当に本当に好きな作品でありまして、ラグビーボールの曲線が、主人公友井浩孝のあくまでも登り切らずに下がり切りもしない人生を象徴していると言いましょうか、つまりラグビーをせずにラグビーボールばかり集めていた友井の不参加的精神という自分のわからなさの象徴、ラグビーボールを最後に母校の校庭で蹴るわけです。その結果現れるはずの宙を描く曲線が現れず、決して運動少年として生きてこなかった、参加者として存在しえなかった友井の蹴りによって、ボテボテと地面を寂しげに転がるラグビーボールの描写に、私は抑えきれない感動を覚えたのであります。少し引用してみましょうか、ちゃんとこういうことでもあろうかと文庫本を用意しております、ええと、はい、それではページペラペラペラとめくらさせていただいて、はいちゃんと付箋をしております。では、僭越ながら、

 

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 友井が抑えきれずに駆け出し、辿り着いたのは母校の校庭であった。勿論、明朝三時の校庭に人がいることはなく、あた、あた、あたりの、あ、辺りは、しんと、

 

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あ、すみません、朗読なんて、そうですねえ、普段しないものですから、メチャクチャ緊張してしまいました。朗読って難しいですね、いやー、まいったまいった、しかしながらここで私は朗読のうまさを披露したいわけではないのですからして、そうですねえ、幾分、下手な朗読となりますが、我慢して、聞いてもらえればと思います。

 

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 友井が抑えきれずに駆け出し、辿り着いたのは母校の校庭であった。勿論、明朝三時の校庭に人がいることはなく、辺りはしんとした暗さと静けさを保っていた。校舎の片隅にある宿直室の灯りがポツンと付いていた。「宿直の警備員に見つかったら厄介だぞ」と鯨井は考えた。しかし友井は、近頃の人員不足で、宿直室に灯りだけつけておいて、実際に宿直はいない、といった事態が時折あることを宝田との世間話において知っていた。そして微かに見える静けさの中に、ラグビーボールをそっと置いた。

 ふと、美代子のことが頭に浮かんだ。あの大きな樫の木が見える喫茶店で、美代子が飲み干しかけのアイスコーヒーをストローで吸うときのじろじろとした音が、

 

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うーん、なんか違いますね、どうも、なんでしょう、やってやったる感というか、自我と言いますかが、強めに変な主張をしている気がしまして、朗読における重要な、ただ言葉を相手に伝えるということができていない気がするのであります。それも最初の一行目から、弱ったなあ、実際どうです?皆さん、私の朗読、すんなり頭に入ってきますか?うん、そうですねえ、どうでもいいというような顔をしてらっしゃるのがほとんどと言ったところでしょうか、どうでもいいならどうでもいいでいいじゃないか、恥も見聞もかなぐり捨てさせていただきまして、いっちょ朗読の海へとまいろうではありませんか。申し訳ない、もういっちょ最初から朗読させてください、なんせこういうのは始まりが大事なものですから、いざ、

 

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 友井が抑えきれずに駆け出し、たどどどりつふぃ、あ、もう、本当、なんなんだ、

 

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壮大に噛んでしまいました、なんならちょっと苛立ちを抑えきれなくなりそうにまでなってしまいました。しかしてそこはセラピストです、自分の感情をそれなりにコントロールさせていただいております。どうでしょう、正直、若干読むのが面倒くさくなってきました。実際これを読んだからと言って、私の小説「蒟蒻」の話にどれほど関わってくるかと言われたら、ほんの人匙の、スプーン一杯の砂糖くらいの、あ、すみません、例え間違えました、例え間違えましたというか、ヘボすぎました。この辺、これから作家兼セラピストとしてやっていく身としてはもうちょっと頑張りたいというところです。実を言うと先程申し上げました、心の1LDKというワードが未だに私、引っかかっております。自分から言っておきながら、あれはちょっとどうなんだと言うか、簡潔に言うなら、意味わからん、でありました。うーんと、なんでしょうねえ、ま、いいか、一旦、一旦鯨井の「ラグビーボール」も重箱の隅に置いとかせていただきまして、なんですかね、こんにゃくの話ですよね、なんで鯨井の「ラグビーボール」朗読してたんだ?私?

 

 ◆

 

あら、こんにゃくが落ちてきました。これは、一体どういうことでしょう、不思議ー、上に人はいません。いや、あれですよ、私、何にも知りませんよ、そういう演出とかではありませんよ、いや本当、不可思議だなあ、摩訶摩訶不可思議、そうそうこんにゃくの不可思議についての話でした、つまりこんにゃくってのは文学にならないって話を、あ、そうです、この話しといた方がいいですね、こんにゃくが文学としての題材として選ばれたことはありませんって私言いましたが、落語を文学として捉えるならばまた違ってきます。落語には「蒟蒻問答」という演目がありますね、坊主のフリをした蒟蒻屋が、旅の僧からの禅問答を無言のジェスチャーでやり遂げるという話です。これなんか私、アニメの「一休さん」全296話を一気見していた時期がありまして、その中でサヨちゃんのお爺ちゃんである寺男、吾作さんが「大根問答と一日和尚」という回において問答を立派にやり遂げています。その時の吾作さんの味のある表情と言ったら、もーう、格別です、なんでしょうねえ、私などあの顔でご飯三杯行けちゃいますよ、それは言い過ぎか、ええーと、なんですかね、大根問答の話でした。そうですそうです、大根問答、これまた面白いタイトルをつけてくださいました、つまり「蒟蒻問答」が何故「大根問答」になったのか。この答えは非常に簡単であります、一休さんの禅寺で大根を作っているからです。つまり一休さんというアニメ世界の鍋の中に落語の「蒟蒻問答」を「芋粥」さながら煮え立たせた。そんな鍋の中から出てきたのが「大根」というわけです。なにやら話がおでんめいてきましたが「大根」、この「大根」もある種、文学との相性の良さは格別であります、

 

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流れ行く大根の葉の早さかな

 

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高浜虚子の句になります。言うまでもなく、名句中の名句中の名句でありましょう、大根の味でもなくフォルムでもなく、葉っぱが川を流れる早さに着目した今でも新しいと感じさせてくれる句であります。そして何よりこの句、音の響き具合が本当素敵ですよね、流れ行く、ここで「く」と切れて、大根の葉の、ここの「葉」の音がまさに水に一瞬浮くような音の上がり方しています、「大根の」という重ったるい言葉の後に「あ」の音、「葉」が繋がれることで、一瞬浮く、そして、「の」でまた落としたと思いきや、「早さ」の「は」の音で早さにリンクするように素早く「あ」の音が連鎖する、「流れ行く大根の葉の早さかな」、うーむ、素晴らしい、まさになんも言えねえとはこのことです。やはり川を流れる早いものは大根の葉でなければなりませんね、これがこんにゃくだったらどうでしょう、重い重い、重ったるくて流れやしません、しかし、そうですねえ、こんにゃくもやはり捨てたもんではございません、

 

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こんにゃくをかじればもろき秋の虹

 

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ホトトギス同人、五Sの一人、櫨山禱子の句です、祷子の句は主観と客観を織り交ぜた革新的な句でした。つまり当時の俳句界は正岡子規が提唱した写生句、その流れを客観写生としてさらに発展させたのが高浜虚子、つまり主観を入れず、絵を描くようにできた句こそ名句になり得るという思想が蔓延する時代でした。そこに異を唱え、主観写生句を提唱、後にホトトギスを抜けることとなるのが水原秋桜子、五Sの一人ですね。そうした俳句における客観と主観の対立の中、折衷案のごとく客観と主観を混ぜ合わせた異種族として名を馳せたのが祷子となります。「食べる」ではなく「かじる」という主観的言語、そんな主観的行為によってなのか関係なくなのか、ふっと消えていく「秋の虹」を「もろき」というシンプルなワードで描写、客観写生しています。「かじる」の「じ」の音と、「秋の虹」の「じ」の音、主観と客観が濁音によって結び付けられるイメージが句全体に独特の緊張感を醸し出しています。この話から結びつくのが、ポスト印象主義と括られる画家、ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャンの綜合主義という考え方です。「説教の後の幻影:ヤコブと天使の争い」において完成された見える現実を描く印象主義と見えない幻想を描く象徴主義の融合、主観と客観の共存、方法の面からも構造の面からも内容の面から反発する概念を共存させるというクロワゾニスム中のクロワゾニスムというわけですねえ、、いやはや、しかし美術の話となりますと作家の私にはもう門外感甚だしいわけで、クロワゾニスムがなんたるか、実を言えば私など全くのチンプンカンプンなわけであります、うーむ、こんにゃくの話でした。こんにゃくのクロワゾニスムの話でした。こんにゃくのクロワゾニスムの話?なんじゃそりゃ、いや、困りましたね、そろそろ私の小説「蒟蒻」の話に移らせていただきたいのですが、実はもう少しこんにゃくについて話し足りないことがありますので、お付き合い願います。皆さんこういう経験はありませんでしょうか、お化け屋敷をこわいなーこわいなーって歩いてる中、急にヒヤリとしたものが肌に当たるという経験、

 

 ◆◆

 

わあっ、びっくりしたー、なんなんですかね、二個も、二個も落ちてきました、お化け屋敷の話してたから本当に出たかと思っちゃいましたね、しかし、あれですね、なんて嫌な音するんでしょうね、やっぱ、ベトベトしてるからあれなんですかね、張り付く感じで、あまりいい音とは思えませんね、大丈夫です、大丈夫です、私話したいことをちゃんと覚えています見失っていません、つまりお化け屋敷によく使われるのがこんにゃくというわけです。さっき落ちてきましたこんにゃくに私がびっくりしたように、くらーい、何かが出そうな空間でヒヤリとしたものが肌に当たる、ウワーって、なるわけですね、しかし蓋を開けてみればなんてことない、ただの釣り糸にこんにゃくがぶら下がってるだけ、なーんだ私、こんなものに悲鳴を上げちゃっていたのかアハアハアハと、恐怖を一瞬にて笑い話に変えてしまう魔法のトリック、そんな使い方としてこんにゃくが存在しているわけです。つまり私が何を言いたいのか、落語にしろお化け屋敷にしろ、こんにゃくというのはどこか喜劇としての素養が十分にある気がしているわけです。なにしろこんにゃくです。この音、こん、にゃく、なんでしょうねえ、もう、本当あれですよね、力抜けちゃいますよね、こんにゃくって言葉、こんにゃくのふにゃふにゃしてるイメージも相まっているかもしれません。やはり悲劇の素材としてこんにゃくは向いていないように思えてならないわけです。緊迫した場面、盛り上がりのクライマックスシーンにこんにゃくが出てきたらそれこそ興醒めであります。それともう一つ、申し訳ありません、本当は早く私の拙著「蒟蒻」についてのお話に入りたいのですが、そのためにはまずこんにゃくについて語り終えなければならないと考えているのです。それとも今ここでもう小説の話に入った方がよろしいのでしょうか?

 

 ◆◆◆

 

うーん、これは、どうでしょう、イエスってことなのか、ノーってことなのか、一旦ノーって解釈と捉えさせていただいて、次の段階の話を進めさせていただきたいと思います。

 

 ◆

 

気になるなあ、え、どうなってるのか、この、機構、どっから降ってくるの、このこんにゃく、こわいこわいこわいこわい、こわいという言葉はしかしながら今の私にとって都合の良い言葉です、何せここからこんにゃくにおける怪談としての立場を明確にさせておきたいと思っていたからです。つまり妖怪との相性の良さ、それがもう一つのこんにゃくの特徴だからです。ご存知の通り妖怪と幽霊とは別物のようであります。また、怨霊とも意味合いが変わってきているとも思われます。幾分か妖怪の方が喜劇色が強くなります、つまりエンターテイメント、妖怪文化は江戸時代に発達しました。江戸時代とはそれまでの時代と比べて比較的平和が訪れた時代とのことでありまして、言わば人々は退屈していた、しかしながらまだまだ街は暗い、そんな暗さをエンターテイメントとして、妖怪、怪談の類いがみるみる猛威をふるっていくわけです、葛飾北斎歌川国芳など迫力ある浮世絵師たちの力もあり、怪談、美術、あるいは浄瑠璃の方面からも四谷怪談、番長皿屋敷、魚乃目四十八滝、もうこの辺になりますと私なんか見たこともないものですからなんとも言えません、すみません、力及ばず、しかし困った。あ、間違えました、申し訳ない、妖怪の話をしようと思っていたのに浄瑠璃の話になってしまいましたね、ええと、つまり、こんにゃくの妖怪がいるわけです、

 

 ◆

 

うーん、私はどうしてこんなにこんにゃくについて喋っているんだ、

 

 ◆

 

いやはや、しかしこれは実に奇妙なことではありませんか、

 

 ◆

 

イテ、痛いなあ、ついに当たっちゃったよ、こんにゃく、気持ち悪い、あ、そうでした、小説の話でした、小説の話、つまり拙著「蒟蒻」において、私は登場人物のセラピスト、あ、お察しの通り、この体験は私の実体験が強く影響しているんですが、そんなセラピストさんにこんなことを語らせています、こんにゃくとは、中国の道教思想の気の概念、魂魄からきていると、つまり、魂、すなわち精神に宿る気と魄、こちらあまり私どもには馴染みがない言葉ですが、肉体に宿る気で魄、その二つを合わせて魂魄。これがこんにゃくの語源になっていると言うわけです。いいですか、こんぱくこんぱく、こんふゃく、こんひゃく、こんにゃく、ま。こういう変化が起こったってことになります。ええと、なんですかね、つまり、つまり見てください、

 

 1、そこらに落ちているこんにゃくの一つを拾う。

 

これがみなさんご存知こんにゃくです。

 

 ◆

 

そうです、そして、今降ってきているのもこんにゃくとなります、

 

 ◆◆◆

 

ご存じの通り、こんにゃくとは空から降ってくるものと思われます。

 

 ◆◆◆◆◆◆◆◆

 

以上のことから、こんにゃくは空の属性、循環しているとも取れるわけです。

 

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つまり魂、は上に浮上する。

 

 ◆◆◆◆◆◆◆◆

 

こんにゃくは下に落ちる。

 

 ◆◆◆◆◆◆◆◆

 

これが自然の摂理となります。

 

 

以下、◆が降り積もっていく。

 

 

よーく見れば、なんてことない、あなた方もこんにゃくということです、痛いなあ、降るのはいいのですが、傘が欲しいですね、つまり、なるほど、今やっと私の小説の意味が分かりかけてきたと言っても過言ではありません、何故こんにゃくが文学として成立しうるのか、それが魂と魄、二つの要素を含んでいるように、喜劇と怪談、落下物と上昇物、人間と妖怪、言葉と身体、私とあなた、芋と石灰、主観と客観、印象と象徴、ありとあらゆるさまざまなニ要素によってプルンとこんにゃくしているからであります、クロワゾニスムされているわけですなあ、あ、これがこんにゃくのクロワゾニスムですか、なるほど、こんにゃくの陰陽論と言ってもいいでしょう、しかし驚くべきことは私もこんにゃくなのですか?、これが、このプルンとした物体が、私?、確かにこのなんとも言えない色と黒いブツブツ、実に不可思議ではありませんか、宇宙の成れの果てと言いましょうか、輝きを失った流星群とも言いましょうか、いかにも荒廃した宇宙を思わせる色合いをしています、私なんかこんな鉱石の一つや二つ、三万円ぐらいで売ってそうな気がしてきましたよ、宇宙の源が詰まった鉱石、こんにゃく石、こんにゃく石?こんにゃく指輪に使えそうでございますねえ、給料三ヶ月分の、給料三ヶ月分のこんにゃく指輪だよ、アハアハアハ、しかしてこんにゃく、なんて面白い音なんでしょう、こん、にゃく、にゃく、こん、あれれれ、なんだかおかしいぞ、にゃくにゃくと私はこんこんしていっていませんか、つまり雨が降っているだけと捉えることもできれば、どうして世界にはゼリー状の雨がないのか、不思議でなりません、プルンプルンしたものが落ちてくるのは、実に楽しいですよ、実に楽しいですが実に臭い、うわー、臭い。そうか、思い出したぞ、この身体に騙されてはいけません、私たちは妖怪です。人間たちの魂を喰らうためにやってきました。妖怪人間ベムだったのです、♪こんにゃくにかーくれて、潜む、俺たち、よーかーい人間なのさ、妖怪人間ってなんだ、妖怪なのか、人間なのか、どっちなんでしょうか、よーかーい人間、あらわるあらわるー、それこそこんにゃくではないか、ああなるほど、これはこんにゃくではありません、同志たちです、あなたも、私も大きなこんにゃくというサイクルの中で繋がっています、いざ、埋もれようではありませんか、海に、こんにゃくというエーテルの海に、

 

 1、積もったこんにゃくに潜る。

 

ああー、臭い。

しかし、どうでしょう、これ。私としましてはかなり悲劇に思えてならないのですが。。。

 

 ◆

 

イテっ。

 

 

 

終わり。