稲垣和俊戯曲集

戯曲集をここに。まさかのここに。

明夜、雨に濡れられない

※この戯曲は「明夜、蛇になれない。」の初稿です。


もしもし、もしもーし、聞こえてる。いきなりごめんね、どうしてるかと思って。どうしてたっていいんだけども。どうということもないのだけども。今ね、立ち止まってる。困るね、終電を逃しちゃった。飲んでたわけではないのだけども。ただね、逃しちゃった。家がね、遠いようである。なんでだろうか、話をしたくなってね。どうすればいいと思う。タクシー。うん、そんなお金はないようである。歩いて。帰れるのだろうか。ここから。とりあえず歩き始めてみることにしようか。ここから。ねえ、歩き始めた。だから何ってね。どう思う、地図を見ないで帰ることはできると思う?そうそう、方向オンチだからね、難しいかな。何でって思ってる。何で電話かけたのかって思ってる。なんとなくと言ってしまおうかと思ってる。なんとなく。この言葉で思い出される歌があった。今日、雨が降り出したのだから、約束破って家にいたの、うーうー、ごめん、嫌いになったのおじゃあなーくて、なんとなーくそーうしーたーかーあたー。花をいちーりん、かざってみーたーのー、ポタリとしーずーくー、涙みたーいーにー。ひなげしのはーなーで、なくてよかーあったー、無邪気に咲ーくー気ーにーは、なれーなーいー、名もないそーのはーなはー、私みたーいねー。ひいっそり、ひーとりー、いーのーるのー。よく見ていたアニメのエンディング曲。なんだか、気にかかってしょうがないというわけ。雨が降って、彼との約束をほっぽらかしちゃった。彼を嫌いになったわけではなくて、なんとなくそうしたかったと告げる彼女の言葉。その言葉は確かに告げていて、誰かに向かって話しているのだけども、ごめんって誰かに告げているのだけれども、誰かっていうのはおそらく彼なのに、電話してるとかでもなく、ごめんとそこに行かなかった言い訳をしている。ね、ね、ね、私みたいね、誰かに告げている、なんとなく、なんとなくの言い訳、そんな歌を思い浮かべたの。なんとなく。の、の、の、家にいたの、飾ってみたの、ひとり祈るの、なになにしたの、なになにするの、確かに誰かに告げている。そう、彼に告げているのね、なのに、彼はきっと約束の場所にいて、私は約束の場所にいないから、この言葉はどこにいくのかってね。そんなことを思った夜があった、気がする。なんで電話してきたのって思ってる。私からしたらなんで電話を切らないのって思ってる。ごめん、嫌いになったのーじゃなーくてー、なんとなーくそーうしーたかーあたー。ご報告があります。いいですか。私は今、階段をあがっています。私は今、階段をあがりきりました。私は今、パスモを、コートのポケットの中のパスモを、探して、います、あれ。私は今ー、南のひとーつぼーしをーみあーげてー、誓ったー。相変わらずって思ってる。変わってない、どんなところが、急に歌い出したりしてたかな、いや、今、私は今、パスモを発見したのであります。財布の裏側に潜んでいたのであります。あるある、大げさ?なんか私の財布って、パスモが張り付きやすい材質らしいのね。一瞬だけなくしてしまうのね、一瞬だけ。すぐ見つかるんだけど、あれ、ない、って、あれ、あれれれ、、、あっ、てな具合ね、あるでしょ、そういうの。えっ、ないの。ないかー。ピッ。そんなパスモで私は今、改札機を通りましたよ。私は今ー。私は今、という言葉にはプライドが備わっている。南のひとつぼしを見上げて誓ったことと言えば、どんな時ーもー、微笑みを絶ーやさずに、歩ーいて、いこーうとー。あーなたーをおもうとー、たーだーせーつーなーくてー、なーみだをなーがしーてーはー、ほーしーにーねーがーいをー、つーきに、いーのりをー、捧げーるたーめだけーに、いーきーてーきーたー、うううー。だけど今ーはー、だけど今は、そうそう、この点が大事だと思うの、だけど今は違うってこと。今、南のひとつぼしを見上げて誓った今は、星に願って、月に祈って生きてきた日々とは違うってこと、うううー。だけど今はあなたへの愛こそが私のプライド、このプライドには真逆の方向に働く二種類の決意が含まれているわけであります。あなたへの愛に飛び込む決意とあなたへの愛を過去にする決意であります。つまりどちらにも取れる決意であります。星に願って、月に祈って生きてきた日々を、あなたの愛へまみれることのできない、いざ行動に移しきってしまえないうじうじしていた日々と捉えることで、私は今宣言はあなたの愛へ、いざっ!という決意になりまして、ホシネガツキイノの日々を、面倒なので略しましたが、ホシネガツキイノの日々を、いなくなってしまったあなたとの愛をなんとかもしよう、なんとかもがいてと涙している日々と捉えることで、私は今宣言はあなたの愛を過去に、という決意になるわけです。そのどちらもがあなたへの愛こそが私のプライドになるわけであります。だけどもだけどもね。あなたと離れた時の私にはね、そんな高尚なプライドは芽生えなかったのね。あなたと暮らした日々、あなたと共にいた過去は私のプライドなんてね。そんな高尚なね。高尚て言葉がどんな意味かもよく分からないんだけどもね、心身ともにゆとりが、余裕があるようなね、実際余裕あるよね、南のひとつぼし見上げてんだから。南のひとつぼしってなんじゃい、こちとら南がどっちかも分からずに生活してますがな。実際、あっ、南のひとつぼしだって思うことはこれまでもこれからもほぼないと思いますわ、あるとしたら、電車降りて、駅が北口と南口に分かれてるとこあるじゃない、その南口を降りて、ふと空を見上げたら、星が一つだけ光ってて、あーあれがね、あれが、ね、っていうのはある可能性はあるね、しかしやっぱり、いや。うん、ごめんね、そんなこと話したかったんじゃない。ねえ、私ばっかり喋っている。私ばっかり喋っているね。何か話して。。うん。話すことなんて何もないよね。私から電話したんだよね。私は今、地上に降り立ちました。降り立つ?のぼり立つ?降り立つって言ったらアポロなんちゃら号が月面に降り立ちました、ってそんな感じじゃん。地下鉄から階段をあがって地上へのぼり立ちました。パーンパーンパパパパーンパーンパパパパーンパーンパパパパーン。地上です。ガードレールがあって道路があります。歩道橋があって牛丼屋さんがあります。タクシーが止まっています。 終電が終わっても尚きらびやかなのは居酒屋さんでしょうか、お洒落な雰囲気のバーも何軒かあるようです。歩道の端には、花壇が縁石に囲まれていて、木が生えたり、道路標識が生えたり、凝った造りの街灯が並んでいるようです。街灯にはどこかのサッカーチームが三十周年と表記された旗が揺れていて、地面は四角い煉瓦で埋め尽くされています。足をおろすとじゃりっとします。うん、ここね、えーとね、つまり、そこは一つ秘密にしておきたかったのだけども、そして一つ嘘をついてしまっていたわけだけども。私はさっき、あなたに電話したのはなんとなくだと言ったわけで、歩き始めたのもなんとなくだと言ったわけで。しかしこいつはもしかしたら私は今宣言の可能性があるんじゃないかってことなのね。つまり、あなたに電話するぞ、いざっ!とあなたに電話をかけている。気がする。反面、さっき言ったことは嘘ではなくて、なんとなくあなたに電話をかけている。気もする。私は今宣言に対してなんとなくの行為。さっきのひなげしの歌の女の子みたいなね。だけどこのなんとなくというのは何処からやってくるのだろうか。ひなげし女子は雨が降り出して約束を破った。なんとなくそうしたかったと家にいた。なんとなくは雨に起因している。ひなげし女子の場合。別の場合はこういうのがあるわけだけども、スカートの裾がほつーれたー、ああ、もーうダメだとぼやーいたー、その向こうにあるあしーたはー、あたーしを待っては、くれーないのにー、だんだんだだだだん、ドタン場でキャンセル。しかしこの曲には何をドタキャンしたのか明言されていないのね。ただ、タイトルはドタン場でキャンセルだから、スカートの裾がほつれたからドタキャンしたのかな、とふわっと思う。この曲には、歌詞の通り、ああもうダメだ、という雰囲気に満たされている。部屋に迷い込んで、外に出る術が分からないアゲハ蝶をただ見ている時間、そのアゲハ蝶を逃がそうとしたら羽がちぎれて飛べなくなって、いろんな人達が私に笑いかけてきて、私はいちいちそれに笑い返して、その笑い方も板についてきて、この蝶々は私と重なっていくようであるのだけども、蝶々はーただ落ちてーいくー、雑踏と騒音の中へー、きれいーなあかとくーろのー模様は、コンクリートにーとーけたー、だんだんだだだん、ああ、あああ、っていう雰囲気な訳だけどもね。この歌にもなんとなくの匂いがするということなのね。つまりなんとなくドタキャンした。なんとなくはスカートの裾がほつれたことに起因する。でもこれはあくまでも原因ではない。きっかけといった方がいいだろうか。スカートの裾がほつれたことは重大な出来事ではないように思える。もちろん雨が降っても、外に出るのは面倒でしょうけど、人との約束を破るまでの重大な出来事かと言われればそうではない。おそらく、なんとなくが炸裂したのである。スカートの裾がほつれて、雨が降って、それがきっかけに体の中に溜め込んでいたなんとなく成分が炸裂したと言っていい、気がする。なんでこんな話って思ってる。今日の私もなんとなくが炸裂したということなのね。きっかけは終電を逃したから。なんなんだろうね。面白い話があるの、聞いて。ドタン場でキャンセルにまつわるエトセトラなわけだけども。ある日ね、土壇場ってなんだって思ってね、土壇場って検索してみたのね。そしたら、まあ、正念場だとか、決断しなければいけない時とか、いろいろあったんだけども。ヤフーのさ、質問のやつあるじゃない。あの、誰でも質問できて誰でも答えられるやつ、ああ、そうそう、知恵袋。それにさ、その知恵袋にさ、「ドタキャンって土壇場キャンセルとドタバタキャンセルどっちですか」ていう質問があってさ、ベストアンサーが、「えっ、普通は土壇場キャンセルですよ?」てなってんの。というか回答者その人しかいなんだけど。この「えっ」の部分に回答者の驚きが、こう、あれしてんの、あの、見えるのね、あの、なんだ、うん、そうそう、伝わってくるのね、回答者の驚きが文字から。「えっ」ていう。「えっ」ていう2文字から。えっ、土壇場キャンセルって言葉を知ってんだから、ドタバタキャンセルとどっちかなんて思うことあんの、普通は土壇場キャンセルですよ?っていうわけ。そうそう、知ってなかったらね、あれじゃん、ドタバタキャンセルしかね、ドタキャンってドタバタキャンセルですかって質問ならね、分かるじゃん。そこで回答者は、普通は土壇場キャンセルですよ?と疑問系に返していたの。質問のとこに疑問系で返すわけ。これを真面目に受け取ってみたのね。普通は土壇場キャンセルだけど、普通でなければドタバタキャンセルもあり得るよってことだよね。実際ドタバタしてキャンセルする方が人生多いんじゃないか。もはや、ドタキャンの意味はドタバタキャンセルの方がいいんじゃないか。ドタバタの土壇場への下克上。街の景色が変わってきた。電信柱が多くなってきた。暗くなってきた。一回曲がっただけなのに。コンビニが輝いている。商店街の街灯がポツンポツン。でもこの商店街の店は全て閉まっている。そもそも店があまりにも少ない。解体途中の家がある。木々が生い茂っている。コインパーキングには車が止まっていなくて、後ろに防犯カメラの映像が映っている。人がいない。何処にいるのか。ね。そのことは告げねばならない。今から言うことはそれほど重要ではないこととして聞いてね。ほんの些細なこととして聞いてね。私は今、あなたの家に向かっている。あなたの家へ歩いている。マジで。なんでだろう。どういうことでもないのね。ただ、あなたの家に向かって歩いてる、そういうわけなのね。何かしたいとか、何か訴えかけたいとか、そうではなく。歩く。あるところからゆく。どこから。どこへ。 来ないでって思ってる?来て欲しいと思ってる?歩くという言葉は少し止まると書きます。金八先生が教えてくれたのでした。少し止まってみましょうか。木々が生い茂っている。あの階段をのぼるとどこへ行くのか。どこへのぼりたつのか。私の田舎では、階段をのぼるとお宮さんがあるのでした。お宮さん以外何もないの。鳥居は必ずあったな。たまに狛犬がいたっけかな。お宮さんの引き戸は閉まっている。それは必ずと言っていいほど閉まっている。あの中には何があったのだろうか。きらりと何かが光っていた、気がする。虫が多かった、気がする。そして私は階段をのぼるのであった。手すりが冷たい。歩道橋をのぼる。橋の下には光が6列に通り過ぎていく。時速60キロの光。赤い光に止められた。看板の裏側にはステッカー。地面は赤くてザラザラしている。お宮さんの周りは暗かった。お宮さんを思い出すと周りが暗いのは何故だろう。お宮さんのところには明かりがないのに、お宮さんだけははっきり見えるのね。お宮さんの中も怖いけど裏側も怖い。死体が転がってそうなところ。しかして、あのお宮さんには何が祀られていたのだろうか。橋の上には月が照っている、はずだった。冷たい、この橋の手すりは風に冷やされている。橋がない時代、川を渡る際に人は濡れねばならなかった。泳いで渡らねばならない大きな河などは全身がびしょびしょであった。しかして、人は何故川を渡る必要があったか、川を渡らずには満足できなかったのか。私の場合ははっきりしている。川の先に目的がある。私は今、あなたに会いに行こうと川を渡っている。なんで電話を切らないの?切っても切らなくてもどうでもいいってわけ?そんなに私のことどうでもいいのかね?いや、ごめん、違う、うん。切らないで。お願いだから切らないで。うん。。どう思っているのかね?私があなたのところに行こうとしていることをあなたはどう思っているのかね?難しいでしょうか。思ったことをそのまま言えばいいと思うのだけども。ごめん、やめましょう。思ったことをそのまま言うことなんて私たちにはできない。そんなことを聞きたいわけではない。カエルの鳴き声が聞こえる。風化して自然に崩れたであろう小屋が見える。ここにもたくさんの人がいた。今ではどこにも人影は見えない。人がいないのに人影が見えることなんてあるのかしら。逆を言うなれば、人が見えるのに人影は見えないなんてことはあるのかしら。かしら。かしらなんて言ってる、私。かしら。かしらなんて言葉を言ったことあったかしら。ねえ、聞いたことある?私が、なになにかしらって言ったこと。ない、ないない。私はなになにかしらなんて言わない。よね?あら、今日は雨が降るのかしら。例文を考えてみたの。かしらに関する。あら、雨が降るのかしら。あら。かしらにはあらが似合う。誰が言ってた言葉。お嬢さん、どこかのお嬢さんが言ってた言葉。あら、雨が降るのかしら。そしたら傘を持っていかないといけないわ。だけど傘をさして歩くのは面倒臭いわ。あなたに会うのはやめにしましょう。傘をさすのが面倒だって理由で人との約束を破るのだとしたら。自分勝手極まりない。もちろん、そういった明確な理由もなく、なんとなくという理由で約束を破ったって。自分勝手極まりないことには変わりない。だけどもだけども約束なんてものは果たしてそんなに重要なのであろうか。一回約束破ったからってプンスカプンスカすることなくない?相手の立場?あー、分かる分かる。相手の時間を無駄にした?あー、思う思う。でもでもさ、考えてみてみ。なっがい人生の中でだよ、なっがい人生の中で1日か2日かそんな日があったっていいじゃない。約束ドタキャンされて、どっかの駅の改札の前か、なんかの銅像の前かで、同じように人を待ってる人たちの待ち人が次々に現れて、おーっとか、おっそーい、とか、さっきまで無表情に気怠げにスマホをいじってた人たちがパッと笑顔になって街へ消えていく。そんな光景を何度も見送ったっていいじゃない。いや、私がされたらブチ切れものだけどさ。だけど傘をさすのが面倒だって理由でないとしたら。なんとなく約束を破ったのだとしたら。そっちの方が事は重大である。うっわー、雨降ってきたー、最悪、面倒くせー、行くの面倒くせー、もういいや、彼との約束破っちゃお。では、ないのである。あら、雨が降ってきたのかしら。あら、なんだか、なんだか私。なんだか私、行けないわ、今日は。なんだか、なんだかなんだけども、行けないわ。って、そんな具合でありましょうか。事は重大である。しかして何が重大かは全く分からない。ふわっとした重大さがなんとなくには備わっている。だけども今の私はなんとなくあなたのところへ向かっているわけではないのね。私は今、と決意のもと向かっている。あなたと離れた時の私にはね。さっきの高尚なプライドなんてものは芽生えなかったわけだけども。まったく別の、いかにも俗っぽいプライドは咲き誇ったというわけなのね。つまりあなたに会ってなるものか。金輪際あなたに会いに行こうとするなんてしてなるものか。そう決意したのでありました。しかし、私は今、あなたに会いに行こうと決意している。やっぱりこれは決意なんかじゃないのかしら。ふと、なんとなく、あなたに会いに行こうとしているのかしら。かしら。かしらなんて言葉を使っている私。かしらなんて言葉を使ったことあったかしら。。夜道を歩むおかしみを一つ。私は今、立っている。立っているこの足から地面に続き、黒い影が後ろに伸びている。これは私の前にある電柱にちょんと備え付けられた街灯のせいである。私は少しずつ歩く。するとこの影は少しずつ私の足元に向けて小さくなっていく。いつの間にやら私の前に小さな奴が現れる。街灯を通り越したのだ。それが少しづつ大きくなりつつも薄まっていく。ふと立ち止まる。私の前には次の街灯が照っている。私の影はとても大きいのであるが、いかにも消えそうである。後ろを振り向くと、同じく薄い影が大きく伸びている。私は2つの影を所有することになった。また歩き出す。しかし前に伸びている影はだんだんと消えていく。そして後ろの影は小さく、濃くなっていく。また前に現れたかと思うとだんだんと薄く大きくなって、後ろにはまた影ができている。この道を歩く限り私は2つの影を薄めたり濃くしたり、大きくしたり小さくしたりして歩くことになる。時折、民家の花壇から生えている筒状の街灯や玄関を照らす灯りなんかが混じり、3つにも4つにもなった影を引き連れて歩くことになる。これは夜道の特権であります。昼間には決して味わえない。昼間にはサンサンと照りつけるお天道さんがいらっしゃいます。お天道さんは私たち一人一人に一つの影をお与えくださった。だけど光を作り出せることになった私たちは。夜にもたくさんの影を所有することになったのでありました。生まれ育った家が行燈作りの名家、幼き頃から行燈にまみれて生きてきた秋浜彦兵衛の著書「行燈洸夜」の主人公重四郎が当時の吉原の華やかさを目にし、光と影の核心に迫った一節であります。秋浜彦兵衛。誰それ、誰なの誰なの、秋浜彦兵衛、重四郎。何それ。行燈洸夜って何。違う違う。こんなことを話したかったんじゃない。鳥のことでした。雁のことでした。秋にはいつも南の空へ渡っていくということでした。南には何があるの。ひとつぼし。見上げて祈るはひとつぼし。パヤっ。パヤパヤっ。おいかけーて、おいかけーて、すがりつーきーたいーのー、あのひとーが、消えてゆーく、雨のまーがーりかーど、幸せーも、想い出ーも、水になーがしたーのー、小窓うーつ、雨のおーと、ほほぬらーすなみーだー、はーじーめーからー、はーじめかーら、むすばーれなあーいー、むーすーばーれなーい、やーくそくのー、あなたーとわたしーいぃー。束の間ーの、たわむれーと、みんなあーきーらめーてー、泣きながーら、はずしたーの、真珠のー指輪ーをー。ドゥードゥビドゥバ、ドゥードゥドゥビドゥーバ、ドゥードゥビドゥバ、ドゥードゥドゥビドゥーバ、ドゥードゥビドゥバ、ドゥードゥドゥビドゥーバ、パヤっ。パヤパヤっ。パヤっ。パヤパヤって掛け声が心地よい。それはさておき、ここでも雨が降っている。だけどもこの雨はなんとなくを誘発しない。真珠の指輪をはずすことを誘発させる。状況としては、あなたが去っていた直後。小窓と言っているので部屋の中でありましょうか、いやいや、小窓うつ雨のイメージとしては、車内ということもありえましょうぞ。車窓をうつ雨、幾多もの水滴、もっと狭めるなればタクシー、しかしタクシーともなればタクシー運転手がいらっしゃいますので、ここは一人の方が、いや、だけど、彼女には自分で車を運転するイメージはないですよ。まあでもタクシー運転手がいようがいまいが、自分の車だろうが部屋だろうが、そこはどうだっていい。とにかく彼は去っていった。小窓をうつのは雨の音。おいかけーて、おいかけーて、すがりつきたいがすがりつけない、あなたと私は結ばれないという約束があるからね。小窓をうつ雨の音はあなたとの想い出の保管庫をノックする。それは不規則に、止まらない。そんな過去の保管庫は雨の水に流してしまおうか。残るあなたとの接点は思い出の真珠の指輪。私は今、と、真珠の指輪を外すことが、あなたとの本当の別れでありんす。ドゥードゥビドゥバ、ドゥードゥドゥビドゥーバ、ドゥードゥドゥビドゥバ、ドゥードゥドゥビッ、帰らなーい、面影ーを、胸にだーきーしめーてー、くちづけーを、してみたーの、雨のガーラースまーどー。あれ、ちょっと待って。してみた、してみたのって言ってる。待って待って、一旦タンマ。くちづけをしてみたの雨のガラス窓。なんで、なんで雨のガラス窓にくちづけするの。なんとなく、なんだかなんとなくと言ってしまおうかと思ってる。真珠の指輪をはずす行為は私は今宣言だよね。だけども雨のガラス窓へのくちづけにはなんとなくの匂いがしませんか。おいかけーて、おいかけーて、すがりつくことができなかった私の最後の悪あがきとでも言いましょうか。境界へのくちづけ。くちびるに感じるはガラス窓の冷たさ。おいかけてすがりつけなかった私はつまり濡れることができなかった。この境界を超えて、惨めにもびしょ濡れになった姿で、行かないで、行かないでよ、と言えなかった。そんな約束知らないわよ、と言えなかった。境界には雨がうつ。私の身体は濡れていない。濡れることができなかった私はなんとなくその境界に口づけをする。真珠の指輪をはずすことが彼との決別なのだとしたら。ガラス窓へのくちづけはびしょ濡れになって彼においすがりつきたい私との決別。形が良すぎるかな。面白いのは、私は今、と、指輪をはずし、なんとなく、と、窓へくちづけ。逆だったとしたらどうでありましょうか。なんとなく、と、指輪をはずし、私は今、と、窓へくちづけをする。いやいやいやいや、ありえないでしょ、なんとなく指輪をはずすことは人生において何度かはあるかもしれない。だけど今じゃなくない。彼が去っていくこの今はなんとなくはずさないでしょう。そして、私は今、と窓へくちづけすることは触れるまでもないでしょう。どんな状況だよ、ってね。いざ、いざ、くちづけをしたもうぞ、この窓に。どんな状況やねん。いやはや、少し脱線したようでございます。私は今、と、指輪をはずし、なんとなく、と、窓へくちづけ。この二つの行為は、私は今、と、なんとなく、と、分けてみることができるにもかかわらず、根底の質感は似ているという事に気付きはしまいか。どちらも、所謂別れるための行為ということには変わりない。だけど、この行為は、私は今、と、なんとなく、に分かれている。どういうことでありましょうか。ここで私は次のような分類方法を提唱したい。前者、私は今、と指輪をはずすことを直接的私密行為、後者、なんとなく、とガラス窓へのくちづけを間接的私密行為と。指輪をはずすことは、因果性がありますよね。だって、彼と別れてるんだもん。関係ないとは言わせないわよ。彼と別れたから、あるいは別れるために、彼との思い出の指輪をはずした。直接的に繋がっている私密行為というになるのでしょうか。その反面、ガラス窓へのくちづけは直接的なつながりはない。彼と別れたから指輪をはずした、は、何故そうしたのかはっきり分かるけど、彼と別れたからガラス窓にくちづけた、は、一見分からない。なんとなく分かる。だけどもやっぱり、彼と別れたという状況があるからガラス窓へのくちづけが行われるということは確かなようでありまして。関係ないようでいて実は関係している、これを間接的私密行為と名付けた。追いかけーて、追いかけーて、すがりつくことができなかった私は、直接的にも間接的にも私密行為を行っているのである。そもそも私密行為って何?お答えしてしんぜよう。私が密になった行為のことである。以上。以下。ここからが本題である。だよね。果たして私には私密行為がありましたっけ?私はね、真珠の指輪を貰わなかったし、雨に濡れた小窓にくちづけなどは行いませんでした。勿論、夜の公園にて、せーのっ、で、お互い振り返って歩き始めるなんてしなかったよね、あと、端と端を持ちあったテープが遠く離れていく船によって切れてしまう時間なんて知らないわよ。私がね。知っている。あなたはふと去っていった。なんとなく、去っていった。それまでの時間になんの支障もきたさないかのように。これからの時間をなんとなくやっていけるかの如く。ね。川です。波の音が聞こえる。はずだった。波の音が聞こえようにもあまりにもこの川は穏やかである。震えている。だけども小刻みに蠢き続けている。光。水面に映った街灯の灯りが揺れています。民家の窓から漏れている灯りも揺れているわけであります。ぼこぼこと盛り上がっているのは水草か、大きな石だろうか。黒い、汚い川でありましょう。だけど今夜は汚いなんて思わない。街灯がこの川の蠢きに模様をつけているのである。どこまでも。どこまでも続いていくかの如く伸びているのね。それに負けじと街灯も。この川に沿って生え続けていらっしゃいます。両側に柵。この川に入ろうなんて思わなくない。この橋。あまりにも短いこの橋。アスファルトで埋め尽くされ、最早道路の一部となっているこの橋。この橋を渡る。一歩、二歩、三歩、四歩、五六七、八、九、十歩。見えた。あなたの家が。アパートが。懐かしい。気がする。二階の左から三つ目。203号室。あの部屋でどんなことがありましたの?うーん、そうだなあ、どうでもいいじゃない、そんなこと。どうでもいいことがたくさんあったっけ。白い外壁。黒い手すり。自転車置き場。ゴミ置き場。緑の網の四角いボックス。燃えるゴミの日は何曜日だったかしら。火曜日でありましたね。違う違う、水曜だったじゃん。階段をのぼる。年寄りにはキツイ階段ね。すぐに踊り場。踊り場っていうぐらいだから踊ってみたらどうであろうか。何言ってるの。踊るわけないじゃない。階段をのぼる。一つ目。この部屋にはお母さんとちっさな女の子が二人で住んでいて。二つ目。ここは足が悪いおばあちゃんが一人で住んでいた。長話に捕まると厄介だったね。三つ目。着いた。着きましたよ。ここにあなたがいる。よね?相も変わらず。相も変わらず長方形。の、ドア。なんて意味のない言葉。相も変わらず長方形。一度も使わなかった配達牛乳瓶置き場。傘をかけていた窓の柵。今、私は今、ここにいるのね。ピンポーン。ピンポーン。ブー。ブー。トントン。トントン。ごめんくださーい。ごめんくださーい。ドンドン。ドンドン。ドンドン。ドンドン。ごめんくださーい。ごめんくださーい。ピンポーン。はて、不思議なものである。外から中の人に呼びかけるとき、ごめんくださいと言う。ごめんをくださいと言う。どういった料簡でそんな言葉を使うようになったのでありましょうか。元来ごめんはあげるものであった。つまり、ごめんあげます。違いますよ。ごめんは御免。御免状をくださいという、つまり許可をもらうための、なになになになに、正論ぶっかましちゃって。正しいことなんて面白くないよ。ごめんは五面。五つのお面のことね。この五つのお面を怒り狂った神に献上することで世を安泰に保った。つまり、怒面、怒る面。喜面、喜びの面、待って待って。ごめん。こんな話したかったんじゃない。いない。いないの。ね。当たり前か。さて、どうしたものか。南のひとつ星に誓ってみようか。だけども私には南がどっちかも分からない。真珠の指輪をはずそうにも私はあなたから指輪を貰わなかったし、雨のガラス窓にくちづけようにも雨は降っていない。そもそも窓には柵がしてある。月はきれいに雲に隠れているし、にも関わらず雨が降る気配はない。中途半端。ここできれいに朝陽が照り始めてくれるとよかったのに。様になったでしょうに。まだまだ夜は更けそうにありませんわね。さて、どうしようか。踊ってみましょうか。意味わかんない。なんで踊るの。笑ってみましょうか。笑ってみることなんていつでもできるわ。歌ってみましょうか。どうして。どうしても。ねえ、両手あわせたとーきーにーだけ、神さまいのーるの、わーがままーよね、うーうー、でーも、この切なさのわーけーぐーらい、教えてくれーてもいいーでしょー。生まれかわーあってー、花になるーなーらー、カナリヤいーろーのー、花びらがいーいー。ひなげしになあってー、丘の上ーかーらー、星をながーめー、おーしゃベーりすーるーのー、その日のたーめーいーきもー風にまかーせーてー、こーどもの、


タンタラタラララタラララン、タンタラタラララタラララン、(電話の着信音)


もしもし、もしもーし、うん、聞こえた、うん、あっ、そうなんだ、えっ、何それ。そうなんだ。ごめーん。今日帰れなくなっちゃって。あー、そうなんだ、いや、なんか終電逃しちゃって、うん、なんかね、どうしよっかなって感じなんだよね。今、今ね、びっくりすると思うんだけど、今ね、前さ、住んでたとこ来てて。そうそう。懐かしくない。えっ、なんで、なんでって言われると困っちゃうんだけど、なんとなく、うん、終電逃して、なんとなく、歩いてみよっかって、なって、えっ、ない、そういうの、あるでしょ、えっ、ないかー。うん、なんかね、あの、サンクスがなくなってて、そうそう、あのサンクス、早口のおばさんの。あと、建設反対ってめっちゃ看板してた家あったじゃん、あれがより反対の看板増えてて、奥にめっちゃきれいなマンション建ってた。 そう、ずっと工事してたじゃん、あれ。あとね、丘におっきなひまわりが何本も揃ってて、川に暇そうな渡守がポツンと佇んでいる。うん、変わっちゃったからね。公園のくるくる回る球体の遊具もなくなっちゃったし、川沿いのあんバターが美味しかったパン屋のとこが歯医者になってて。畑が駐車場になってる。あったじゃん、あったあった。うん、変わっちゃったからね。うん。えっ、大丈夫だよ。うん、もう帰る。えーっとね、とりあえず駅のとこに戻って、満喫でも行こうかなって思ってて、そうそう、だから、心配しないで。うん、朝になるけど。うん、うん。じゃあね、うん、はーい。


電話を切る。


しばらく、スマートフォンをいじくる。


ふいに、


分かってる。分かってますよー。知ってますよー。だけどもだけども。ね。もう一度だけ。呼びかけさせて。ごめんくださーい。ごめんくださーい。ごめんくださーい。うん、なんだろうか。いつかの朝みたい。


照明消える。
スマートフォンの光がポツンと残る。
ゆらゆら漂って、消える。


終わり。